新国立劇場 演劇『長い墓標の列』(2)中日再見/成長した舞台/古河耕史に痺れた/自死しないユダの決意

再度『長い墓標の列』を観てきた(3月15日/新国立小劇場)。

やはり舞台は育ち成長していた。どの役者も初日に見られた硬さがほぐれ、それぞれの役を生きはじめている。なかでも城崎を演じた古河耕史には痺れた。
まずは第3幕の城崎と山名の対話。前言を翻し、大学へ戻る理由を述べる場面で、古河は、ある種の〝呵責〟というか〝毒〟のようなものを肚に入れて発話していた。そう感じた。

山名 ・・・しかし私は君がこういったのをおぼえている。自由の失われた大学にとどまることは学徒としての信念が許さない。
城崎 ええ。そう申しました、たしかに。実をいいますとそういう思いつめかた自体が、いやになったんです。こら、多少、自分がいやになった、ということでもありますが。・・・

ここから城崎は、山名の理想主義を、「浪花節みたいな見得を張」り、「ヒロイズムに酔っぱらってい」る「つまらぬ英雄主義」として批判していく。底に〝毒〟(傷)がある分、批判の舌鋒はある種の昂ぶりを見せる。すごい迫力。だが、古河の発話は決してコントロールを失うことがない。自在な発話と身体の撓やかさが台詞に生気を吹き込み、きわめて密度の高い演劇的時空間を現出させた。客席は静まりかえり、固唾を飲んでユダが裏切るさまを見守るだけ。
そして第4幕 エピローグ。第一稿ではエピローグに城崎が登場することはないが、改訂版では戦死した花里のノートを持って山名の家を訪ねてくる。万一の時には弘子に届けるよう花里から託されていたのだ。弘子と城崎の対話。城崎は、花里が死ぬまで弘子のことを思い続けていたこと、花里は山名を離れて以降ずっと不幸であり、自分が彼を誤らせてしまったと思う、という。

城崎 ・・・ただ、これをお嬢さんに申しあげるのは残酷かもしれません。しかし、なぜ、あのとき、花里を追って来てはくださらなかったのでしょうか? それがすべてを変えたかもしれないとはお思いになりませんか。(間)お嬢さんはお父さんをより愛していらっしただけですね。それが、お嬢さんのせいではありません。・・・

役目を終えた城崎は、「先生にはお会い出来ないにしても、二度と足を向けることもあるまいと思っていたこのお宅へ、うかがうことが出来ました。私は花里に感謝しなければなりませんね」と言い残して去りかける。ところが弘子は、ノートは返したいといい、読むことすら辞退する。「拝見すれば、私は、あのかたを、背負って生きなければならなくなる」からと。あの日、弘子はほんとうは花里を追いかけて行ったのである。

弘子 ・・・追いついたのは、もう駅前の通りでした。雪のなかを、肩をならべて……笑ってらしたわ、城崎さんはなにか話しながら……あのかたは黙ってらした。その、うそ寒そうにちぢめた肩が、私にはあかるい、って、感じられましたの。足がすくんだんです、私、そのとき。あのかたでしたわ、でも、あのかたじゃなかった。男の、匂いがしましたの。世間普通の、人間の。(間——)私たちは、父の事件がはじまるといっしょに、みんな、父を、父の生活を、いっしょに生きはじめたんですわ。父が、犯罪者なら、私たちは、犯罪者の身内ですもの。あのかたもそうなるところでした。共犯者、かしら……あのかたのうしろ姿をみて、私は、はっきり、あのかたが、うしろ暗い思いをせずに歩くことが出来る世界へもどって行った楽しさを、解放感を味わっていらっしゃるのが、わかったんです。……私とは、別の世界のかたになってしまわれたことを。

下手の和室で正座した城崎を前に、考えながら吶々と語る弘子。熊坂理恵子の穏やかだが芯のある発話は、聞き手(城崎=古河)の生きた身体を経由し、我々観客に染み込んでくる。雪のなかで談笑しながら歩く二人の後ろ姿が、「解放」された花里の「うそ寒そうにちぢめた肩」が、眼に見えるようだった。弘子は続ける、「私は、父を愛しておりませんでした。でも、いま、やっと、愛しているような気がしていますの。愛しております。私、花里さんを愛しておりました。いまは、愛しておりません。やっと、いま」。下手の居間は、女の(妻、娘)視点から、もっぱら上手で展開される男(山名)の行為の意味を相対化する機能も担う(第2幕の冒頭で弘子が花里に聞かせる「のっぺらぼうの夢」を見た話は、父のファシズム批判等により近親者(花里を含む)の態度が豹変することの不気味さを暗示しているかも知れない。また、同幕の幕切れ近くで久子は帳簿をつけながら、山名が二・二六事件批判を書いた後へそくりを始めた話を弘子にするのも、山名の闘争に主婦の側から光を当てるものだ)。
エピローグの大詰めへ話を戻そう。やがて、久子が書斎にいる山名の急変に気づき、弘子も上手の書斎へ駆けつける。思わず城崎も立ち上がるが、道義上、居間に留まらざるをえない。ほどなく娘に助けを求める久子の声が聞こえるが、弘子は医者を呼びに走り出たところだ。ついに城崎は「書斎にとんで行」き、久子を助け床に倒れた山名を抱き起こそうとする。グッときた。かなりきた。初日にはなかったことだ。
先に触れたとおり、第一稿でのエピローグに城崎は登場せず、したがって山名と城崎が再会することもない。だが、改訂版は二人を再会させるのだ。この変更は、ひとつには、戦って死にゆく山名への〝ご褒美〟ではないのか。そう思った。山名はエピローグの前半で千葉に城崎の消息を聞いたり、飯村たちの前でふいに「城崎」と呼びかけたりする。山名にとって一番弟子はやはり城崎であり、山名は誰よりも城崎と議論が、話がしたいのだ(モデルの河合榮治郎と大河内一男のことではない、創作上の話である)*1。そんな山名が死の間際に城崎と邂逅するのはひとつの〝救い〟に違いない。
久子は異変を来した夫を城崎に託し、別の医者を呼びに走り去る。舞台には二人きり。「山名がそこに彼(城崎)の姿を認めているのかどうか、わからない」が、「城崎君、城崎」と呼びかける。そして、なぜ日本がこうなってしまったのか、「必然」なのか、自問自答する。「犯人は、いないというのか? どうにも、ならなかったのだから、犯人は。ちがう、必然じゃ、ない、人間のことだ、人間の。どうしてこんなことに! 犯人は、いる。城崎、私かも知れぬ、君かも。必然じゃ、ない!」。「人間の努力は、無限だよ、無限大だよ・・・」。これに対し、城崎はしずかに言う「必然は、明白に必然たらしめねばならない。そう思って私は生きてきました。これからも、そう生き続けるでしょう。その必然が、歴史が、人を殺すとすれば、それは、よいことなのだと私は思います。しかたのないことではなく」。山名の異変に気づき「先生、先生!」と呼びかける城崎。古河の呼びかけは驚くほど強く、劇場空間に大きく響き渡った。だが、もはや山名は「まったく、動かない」。あたりの照明は絞られ城崎だけを照らしだす。後方の闇のなかで黒服の人々が下手から上手へゆっくりと歩いていくのが見える。〝長い墓標の列〟か。

城崎 (山名の体から、手を放す、やがて語りつづける。しっかりした口調で) 先生、私は、ですから自分が、犯人であることを、その責任を、回避しようとは思いません。私が、犯人であるとすれば、私は、自分が犯人であることを、自分に引きうけて生きよう、と思うだけです。(長い間)私は、歩きつづけなければ。[斜体は原文では傍点]

初日には感じなかったのは次のようなことだ。ここで城崎=古河は、自分が犯人であるという自覚を〝傷〟あるいは〝毒〟として肚に入れたまま、強く、軋みを恐れず発話する。自分がユダであることを認識し、それを引きうける。だが、ユダのように自らの罪を悔いて自死したりはしない。あくまで、生きていく(歩きつづける)ことにこだわるのだと。「ひどい時代」を生き残った者の決意表明のようにも聞こえた。
そういえば、先に触れた弘子と城崎の対話の直前、軍装に身を包んだ関西弁の飯村が「きらいやった」城崎に対し、中国で人を殺した話をする条りがある。西原康彰はそうした飯村の「ひどい」体験をよく生きて演じた。敬礼して出て行く飯村=西原に、城崎=古河は正座したままお辞儀をする。とても丁寧なお辞儀だが、決して卑屈にならず美しいとさえいえるお辞儀に、「犯人は自分である」との自覚が込められていたように思う。
このような幕切れの場面は初演(1958年)当時どんなふうに受けとめられたのだろうか。城崎の最後の言葉は、東日本大震災福島原発事故を経たいま、ずしりと重く響いてくる——「自分が犯人であることを、自分に引きうけて生きよう」。少なくともこの日の舞台では、そうだった。
余談だが、初日の古河を見ながら何度も誰かに似ていると思いつつ、ついに思い出せなかった。それが、この日ようやく分かった。片岡仁左衛門、というか、孝夫時代の仁左衛門だ。現代物に出ていたときのクールな孝夫に古河はじつによく似ている。
それにしても、今回は初日とはかなり違う印象を受けた。一つには、すでに触れたとおり、役者たちが役を生きはじめているからだが、もう一つは座席の位置の違いもあるだろう。初日は前から5列目になってしまったが(会員郵送)、この日は10列目から見ることが出来た。やはり近すぎると芝居の全体像を理解するのは難しい。

*1:第一稿(『新日本文学』1957年7・8月号)の実名の影を留める「小河原」という役名はぶどうの会の上演(1958年11月)の直前で「城崎」へ変更されている(『新劇』1958年12月号)。この変更は、モデルの大河内一男を彷彿させる「小河原」を捨てることで、いわゆる自然主義的戯曲から、普遍的な意味を担いうる象徴的なドラマへと生まれ変わったことを意味するのだろう。つまり、もはや城崎は、戦後、東大の総長になったあの大河内一男ではない。ついでながら第一稿には、モデルの河合榮治郎の弟子として大河内(小河原)と安井琢磨(花里)の他に、師に殉じその法廷闘争を支えた木村健康(新屋信三)も登場する。さらにいえば、花里は大学に戻ったあと小河原(城崎)らに邪魔されて東北大へ飛ばされ「仙台で貰った女房がヒステリーで悩まされるらしい」ことを、エピローグで新屋が語るのだ。つまり花里は実際の安井と同様戦死しない。ただ、演習学生の林がニューギニア野戦病院で病死する設定は両稿とも同じだが、第一稿では、その妻が赤子を抱いて新屋に届けるよう遺言されたノートを持ってくる。この中身を新屋が幕切れ近くで読み上げるのだが、ここは読むだけでもグッとくる。戦死した林のノートが、改訂版では、戦死した花里のノートに生まれ変わったのだろう。後者は舞台では決して読みあげられることはなく、すでに読んだはずの城崎の頭の中にあるだけだが。