新国立劇場オペラ《アイーダ》の初日を観た(3月11日)。
このプロダクションを見るのは何回目だろうか。正直あまり得意な演目ではないのだが、今回初めて心動かされた。
指揮:ミヒャエル・ギュットラー
演出・美術・衣裳:フランコ・ゼッフィレッリ
照明:奥畑康夫
振付:石井清子
再演演出:粟國 淳
舞台監督:大仁田雅彦
アイーダ:ラトニア・ムーア(本人の事情で出演不可となったミカエラ・カロージの代役)
ラダメス:カルロ・ヴェントレ
アムネリス:マリアンネ・コルネッティ
アモナズロ:堀内康雄
ランフィス:妻屋秀和
エジプト国王:平野 和
伝令:樋口達哉
巫女:半田美和子合唱指揮:三澤洋史
合唱:新国立劇場合唱団
バレエ:東京シティ・バレエ団/ティアラこうとう・ジュニアバレエ団
管弦楽:東京交響楽団芸術監督:尾高忠明
タイトルロールのアメリカ人ラトニア・ムーアはミカエラ・カロージの代役だが、今回この黒人歌手を聴けたのは収穫だった。第1幕第1場で上手から登場したときは、これがアイーダ? と少々面喰らった。小柄でずんぐりしたその姿形はマトリョーシカに見えたほど。ところが、「勝ちて帰れ」の[シェーナとロマンツァ]でそうした懸念は雲散霧消した。特に「不幸な女よ! 何と言ったの?」以下、「この烈しい愛情を忘れることができるとでもいうの、虐げられ、奴隷の身となってここで太陽の光のように幸せにしてくれたこの愛情を?」等の条りでは、アイーダの内的な苦悩と葛藤が切々と伝わってくる(海老沢敏訳)。特に「奴隷の身」という言葉が役の境遇とムーア自身の出自を聞き手の中でダブらせ、「神々よ、——私の苦しみをお憐れみください!」の弱音の祈りに至っては、身に沁みるように響いてきた。第3幕の[ロマンツァ]「私のふるさとよ」も同様だ。ヘー・ホイのように洗練された完成度の高い歌唱ももちろん好いが、若いラトニア・ムーアの内側から迸るようなスポンテイニアス(自発的/野生的)な魅力も捨てがたい。
ラダメス役のカルロ・ヴェントレは、〝決め〟の高音などはトランペットのように高圧噴射する。欲をいえば若干弛みがちの中低音にもっと密度がほしいが、声に輝きがあり声量も申し分ない。
全篇にわたり見(聴き)応えがあったといえるが、特に第3幕は忘れがたい。アモナズロ役の堀内康雄は、アイーダとの二重唱を父としてまた国王として力強く歌い上げた。堀内の身体性が上背のないアイーダとつり合いがとれていたことも功を奏した。続くアイーダとラダメスの二重唱も素晴らしかった。軍事機密を立ち聞きしたアモナズロが二人に加わる三重唱でも、ラダメスの輝かしい強声と密度の濃いアイーダの豊かな声に、意志を感じさせる堀内の歌唱は埋没することなく堂々と主張し、見事な歌の対話を作り上げていた。ラストの第4幕第2場、「私たちを永遠の喜びへと導くために、金色の翼に乗せて。もう天が開けているのが見えますわ・・・」地下牢でアイーダとラダメスが〝愛の二重唱〟を歌うなか、ゼッフィレッリの演出は、二人を閉じ込めた地下牢がゆっくりと奈落へ堕ちていく。この下降運動に従い、牢の上部に設えられたヴルカン神殿でラダメスのために祈りを捧げるアムネリスの姿が見えてくる「あなたの上に平安がありますように——いとしい御からだよ・・・心鎮めしイシスの神よ——あなたには天が開く!」。グッときた。
アムネリスを歌ったヴェテラン(?)のマリアンネ・コルネッティは国王(父)の平野の隣に座るととても娘には見えないが、歌唱は悪くないと思う。ランフィスの妻屋秀和は相変わらず。エジプト国王の平野和は姿はよいが、もう少し役柄の力強さが欲しい。中低音が若干不安定か。
東京交響楽団は弦も管もよく鳴っていたが、全般的に音質が弦を含めて金属的というのか、もっと木質の音色が欲しい気もする。ミヒャエル・ギュットラーの指揮は全体の構成をしっかり作りだしていた。ただ、ドラマの各場面に必要とされる音の密度や緊張を引き出すには至っていない。悪くはないのだが。
合唱は昨年の国家大劇院合唱団(中国)との共演時に比べ、スケール感を重視したのか、その分、密度やきめ細かさが減じた印象だ。
バレエシーンは東京シティ・バレエ団およびティアラこうとう・ジュニアバレエ団が担当。第1幕第2場のソロは土肥靖子。第2幕第2場でのソロは全身黒ずくめの志賀育恵と黄凱。振付にさほどの面白味があるわけではないので、なんとも言い難いが、土肥は美しさ、志賀はアクロバティックな魅力を黄は力強さを印象づけたと思う。振付の石井清子は子供を活き活きと踊らせる術を心得ていて、第2幕第1場の「小さなムーア人奴隷の踊り」は見ていて楽しめた。