東京芸術劇場・テルアビブ市立カメリ・シアター国際共同制作『トロイアの女たち』/異文化の融和/言語的対話の不在

(舞台を見ても、そのメモをアップできないでいる公演がかなり溜まってしまった。気になりながらも、あっという間に年の瀬だ。せめて『トロイアの女たち』だけでもアップしておきたい。)
蜷川幸雄演出の『トロイアの女たち』を観た(12月13日/東京芸術劇場 プレイハウス)。

作:エウリピデス
演出:蜷川幸雄
美術:中越
照明:西川園代
音響:阿部海太郎
衣装:前田文子
ヘアメイク:河村陽子
振付:花柳寿楽
出演:白石加代子和央ようか ほか 日本人俳優+イスラエルユダヤ系俳優,アラブ系俳優
主催:東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団)/東京都 東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団
共催:テルアビブ市立カメリ・シアター
助成:文化庁平成24年文化庁国際芸術交流支援事業)/イスラエル外務省
提携:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団
特別協力:独立行政法人国際交流基金
協力:イスラエル大使館/在イスラエル日本大使館

蜷川のギリシア悲劇は久し振り。舞台の頭上から垂れ下がる赤い糸や黒い蓮の花は2000年の『グリークス』(シアターコクーン)を想起させる。幕の振り落としや柝による場面転換など歌舞伎の仕掛けや、声明(仏教)、演歌(と思ったら、韓国のパンソリだったらしい)などアジア文化の粋を活かして、東洋的な空気が濃密に醸し出される。
今回のコロスを構成するのは、日本人・イスラエルユダヤ系・アラブ系の三民族(各五名)だが、彼女たちは同じ台詞をそれぞれの言語(日本語・ヘブライ語・アラブ語)で三回繰り返す。これには少し閉口した。あえて芸術性(演劇性)よりもポリティカル・コレクトネスを優先させたことになる。かつての蜷川からすれば、らしくないとも言えようが、ユダヤイスラエル)とアラブ(パレスチナ)を取り巻く現実はそれだけ過酷を極めるということだろう(この過酷さはおそらくわれわれの理解を超えているが、3.11を経たいまいくぶん想像しやすくなったのかも知れない)。蜷川幸雄は「現代史のまっ只中の課題」(プログラム)を演劇というかたちで担おうとしている。これは、ダニエル・バレンボイムエドワード・サイードと協力して創設したウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団のプロジェクトや、日本人指揮者の柳澤寿男がコソボで対立する民族を混合して作ったオーケストラの活動等に比肩しうる挑戦だ。そうした重みが観客に「忍耐と寛容の精神」(プログラム)で舞台に向き合うよう働きかけてくる。その結果、感じたことは以下の通りである。
まず、アンドロマケの息子の遺体を前に、コロスが弔いの歌をうたうシーンには眼を見張った。まず日本人のコロスがしゃがみ一人が鉦を鳴らしながら念仏のような節回しで唱和する。「かわいそうに、気の毒に。/大地があなたを包んでくれる。/母なる大地よ、泣くがいい」。次にユダヤ人が立ったまま、ときおり天を仰ぎ、同じ文句を部分的にハーモニーをつけて歌う。最後にアラブ人が一人は立ったままあとの四人は座って歌う。その合間に、ヘカベも合いの手を入れて歌う。オペラのような趣きもあるのだが、調子はあくまでもアジア的。三つの異なる文化が弔いの歌のなかでひとつに融和する。いままで見たことも聴いたこともないような〝なにか〟がそこに現出した。
ラストは崩壊し炎上するトロイア(客席の後方)をコロスたちがそれぞれのやり方で見届けながら去っていく。やはり、ここでのユダヤ人とアラブ人には尋常ならざるものがあった。グッときた。
この芝居には言語的な対話はほとんど存在しない。蜷川は対話する両者をあえて民族(言語)の異なる役者に配している。主要な対話部分を挙げてみよう。ポセイドン(アラブ)とアテナ(ユダヤ)、タルテュビオス(アラブ)とヘカベ(日本)、カッサンドラ(ユダヤ)とヘカベ(日本)、カッサンドラ(ユダヤ)とタルテュビオス(アラブ)、アンドロマケ(アラブ)とヘカベ(日本)、アンドロマケ(アラブ)とタルテュビオス(アラブ)、メネラオスユダヤ)とヘカベ(日本)、メネラオスユダヤ)とヘレネ(日本)・・・。ヘカベとコロスの対話部分は、日本人コロスとはむろん意味が通じるが、ユダヤおよびアラブのコロスとはそうした疎通は言語的には成立しない(アラブ系といってもイスラエルに住む役者であるから、ユダヤとアラブとは、特に後者は前者の言葉を理解できるのだろうが)。その意味で、言語的な対話はない。ただ、身体的なそれはあるといえるのかも知れない。築地本願寺での『オイディプス王』(1986年)も多言語だった。相手の役者が喋る言葉の意味は分からなくとも、その表情や身体のありよう等から読みとれるものはあるだろう。だが、やはり言語の通じない者同士の対話を見るのはもどかしいことに変わりはない。違和感も残る。蜷川の意図はどこにあるのか。言語=文化が異なっても、意思疎通が可能であることを示すため? それとも、あえて文化=言語の壁を解消することなしに演劇として成立させることで、〝なにか〟を示そうとしているのか。演劇の可能性?(平田オリザが2002年に『その河をこえて、五月』で試みたような、二つの民族が相手の言語を学び合い、それを演劇化することもできるはずだが。蜷川はそうしたやり方には興味がないのだろうか。)
それにしても白石加代子はやはりとんでもない女優だ。音域、声音とも怖ろしくレンジが広い。あっけにとられるような声。カッサンドラに扮したオーラ・シュウール・セレクター(ユダヤ)は質が高い。言葉が分からなくともそれは分かる(なぜだろう)。アンドロマケのラウダ・スリマン(アラブ)も悪くない。メネラオスをやった荒井忠似のモティ・カッツ(ユダヤ)はコミカルな味をよく出していた。ヘレネ和央ようかは、台詞回しがあまりに人工的で言葉がまったく意味を形成しなかった(日本語なのに)。容姿はともかく、声も男役出身とあって低めで(つまり女性的とはいえない)、なぜこの役にとの疑問が湧く。
新聞によると、イスラエル公演が開幕したとの由。この公演の重みをより痛切に理解しうる彼の地の方が、観客席との相乗効果を期待できるかも知れない。観客の反応共々どんな劇評が出るのか楽しみである。