新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(2)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も

前回に続き、だらだらと舞台を追っていきたい。
休憩後は間奏曲 III「日曜の朝」から始まる。ホルンが教会の鐘を打ち鳴らし木管のスタッカートで小鳥の囀りが朝を活気づけると、ヴィオラとチェロがエレンのアリアを予告するように奏し、そのまま第2幕 第1場へ。
村人たちが上手から登場し、教会へ入っていく。教会といっても、舞台の中央に二枚の黒い壁がV字形に設えてあるだけ。V字の底の開いた隙間が入り口で、人々が入りきると、入り口が狭められる。エレン(スーザン・グリットン)と徒弟の少年(高橋洸翔)は教会へは入らず、「海辺で編み物」をしながら少年と「お話し」をする(少年は動きで「話す」だけだが)。礼拝の合唱とエレンが少年に語りかける歌が同時進行する。エレンのメロディーから『ウエストサイド・ストーリー』(1957)を想起した(バーンスタインは本作のアメリカ初演を指揮している)。オルガンの響きが効果的。エレンが少年の衣服の破れと首の傷を見つけ、ピーターの虐待疑惑が頭をもたげる。このとき、教会の少し開いた〝入り口〟から、牧師(望月哲也)と会衆(信徒)の唱和が絶妙なタイミングで聞こえてくる——「全能にして慈悲深い我らの父よ/我らは迷える羊の如くあなたの道を踏み外し罪を犯しました」(対訳ではなぜか「・・・我らの罪を許したまえ」となっている)。ただ、望月の牧師は声量が美点だが、ヴィブラートが揺れすぎて違和感を覚えた。俗な牧師とはいえ、とりわけ礼拝の箇所ではもっと揺れを抑え(ピリオド唱法のように)素直に歌ってもよいのではないか。
そこへピーター(スチュアート・スケルトン)が現れ——ここで教会の〝入り口〟が閉じられる——魚の大群を見たので少年を漁に連れて行くと言う。日曜(安息日)には仕事をしないのが教区の暗黙の掟。エレンが止めても、ピーターは意に介しない。「あいつ(徒弟)は俺のために働くのだ、かまわないでくれ、あいつは俺のものだ」。ピーターのこの言葉に、エレンは "Hush, Peter, Hush!" と囁くのだが、これを字幕=対訳は「なんてことを、ピーター、なんてこと!」と訳している。だが、虐待の噂を恐れるエレンの心情とお節介のセドリー夫人に立ち聞きされたことが判明する後の展開からすれば、ここは意訳などせず「静かに!」とすべきだろう。また、エレンから少年の傷について問い質されたピーターは "Out of the hurly burly!" と乱暴に答えるが、字幕=対訳の「慌ただしさからだ!」は意味が違うし、そもそもピーターの苛立ちが充分には伝わらない。対訳者も参照したと思われるブリテン/ピアーズ版CDに付属の対訳「ごたごたやっているうちにさ」(佐藤章訳/2006年改訂)は、的確だ(基本的に今回の字幕=対訳より佐藤章訳の方が正確でニュアンスもよく伝えていると思う)。ここから二人は口論となり、リブレットにはピーターが「苦悶するかのように喚き、エレンを殴る」とある。が、スケルトンは殴らず、エレンの両手を持ってぐるぐる回したあと放り出し、少年を追い立て出て行く。つまり、リブレットよりもピーターの凶暴性や狂気が和らげられている印象だ。
ケルトンは、前回も書いたが、イノセントではあるが内側に〝病気〟もしくは〝障り〟のような、自分を抑えきれないなにかを抱え込んだピーター像を造り上げていた。
二人の騒ぎを聞いたセドリー夫人を含む会衆たちが義憤に駆られ、少年虐待の真相を探るべくピーターの小屋へ赴くのだが、このシークエンスはよく考えられた演出で、見応えがあった。教会から出てきた村人たちは、エレンから事情を聞く。このとき教会の壁は吊り上げられ、机と椅子が運び込まれて、舞台は室内に変貌(エレンの持ち物を拾ったアーンティが彼女に「中へ入って休みなさい」と促すからには、ボーア亭かそれとも集会所か)。エレンの説明にアーンティとバルストロード以外は誰も納得せず、むしろ反撥する。「民衆の感情が昂ぶ」った(スワロー)ため、彼らは隊列を組み、太鼓を打ち鳴らしグライムズの小屋へ向かう。
ところで、この場面で "Grimes is at his exercise." のフレーズが何度も繰り返されるが、字幕=対訳は「グライムズは修練の最中だ」となっており、これでは意味が呑み込みにくい。このフレーズはクラッブの原作詩からの引用だが、「徒弟の少年の叫び声を聞いたとき、村人たちは〝グライムズは訓練の最中だ〟と穏やかに言った」との条りがそれに当たる。つまり、親方として徒弟を鍛え、しつけているという意味だ(原作では実際に疑問の余地なく虐待していたのだが)。オペラの場合、少年虐待の〝疑い〟に加え、男色のコノテーションも考慮に入れると、佐藤章訳の「グライムズの奴やってるぞ」は実に魅力的。これなら、ネッドとボウルズとアーンティが歌う「教会の行列が始まる/新たな罪の始まり/信心深い瞳でじっと見つめ/ひとりひとりが修練の最中だ」(字幕=対訳)も、「さあ教会からの行列が始まるぞ。/あらたな罪への新たな門出。/敬虔そうなまなざしで色目を使い、/ひとそれぞれにやっている」(佐藤章訳)となり、辻褄が合う。
さて、ここで唐突にジェンダー問題が舞台化される。隊列に加わろうとした「下層民」の姪二人は「貧民街へ帰れ」と言われ、さらに「男だけだ、女は残れ」と女はすべて拒否される。あとに残った四人の女、〝普通の主婦〟から疎外された姪二人にアーンティとエレンは、にわかに団結し女の性の哀しさを切々と歌う。その後、アーンティはエレンを残し、二人の姪と上手へ去りかけるが、エレンが「男は泣けば子供なの/男が戦うとき私たちは母親になる/男の苦い愛の宝を内にしまっておけるよう/私たちの心を鍛えながら」(試訳)と歌い始めると、アーンティは立ち止まり、戻ってきてまた四人で一緒に歌う。エレンの女心に、身につまされ共感するアーンティと姪たちの心情を見事に舞台化した秀逸な演出。最後に、隊列に加われなかった女たちが下手奧から姿を現すと、アーンティと姪たちはエレンを一人残し逃げるように上手から去る。舞台奧からエレンの方を向き、無表情で佇む女たち。やがて、女たちは威嚇するように腰をかがめ、エレンを見る。幕。これは演出家のいう「ピーターの次にはエレンがスケープゴートになるかもしれないという状況」(プログラム)への伏線に違いない。それにしても、背筋が寒くなるような演出だ。
(続く新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(3)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も - 劇場文化のフィールドワーク