新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(1)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も【加筆】

ベンジャミン・ブリテンの『ピーター・グライムズ』初日を観た(10月2日)。
指揮:リチャード・アームストロング/演出:ウィリー・デッカー/美術・衣装:ジョン・マクファーレン/照明:デヴィッド・フィン/合唱:新国立劇場合唱団/合唱指揮:三澤洋史/管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団/芸術監督:尾高忠明/字幕:増田恵子/原訳=リブレット対訳(劇場で販売):江下道子
指揮者=オケ・歌手・合唱・演出のいずれも質が高く素晴らしい舞台だった。ただし、字幕=対訳については少々疑問が残った(舞台言語の翻訳が想像以上に骨の折れる作業であることは承知しているが)。翌日に連チャンで『リチャード三世』初日を観て風邪を引き(中劇場)、その二日後にはくしゃみ鼻水を抑えつつ『P.G.』の2回目を観た。まさに〈英国舞台芸術フェスティバル〉にどっぷり状態(バレエ『シルヴィア』も楽しみ)。
ピーター・グライムズ』(1945)を観るのは初めてだった。昨年ビントレーが新たに振り付けたバレエ『パゴダの王子』(1957)で遅蒔きながらブリテン音楽の魅力に目覚め(『戦争レクイエム』は愛聴していたのが)、この公演を心待ちにしていた。事前にオペラの原作を読み、リブレットと読み比べ、関連文献にも多少目を通して準備万端(?)。(原作の物語詩 "Peter Grimes" はジョージ・クラッブ George Crabbe が書いた大作『町』The Borough(1810)の一篇。『町』は詩人の故郷オールドバラ Aldeburgh と覚しき「町」を人から描写するよう依頼されたとの設定で、町の諸相について書き送る24篇の書簡詩から成る。「ピーター・グライムズ」は22番目の書簡で「町の貧しい人々」との副題が付いている。)
演出のウィリー・デッカーは、四年前ツィンマーマンの『軍人たち』を演出したドイツ人。今回同様、傾斜舞台を巧みに使い凝った演出だったが、少し古さも感じた記憶がある。今回のプロダクションも1994年のモネ劇場が初演というから、18年前に遡る。だが、舞台は古さをまったく感じさせない。本人が来日して再演出した所為かも知れない。以下、時系列にやや詳しくメモしたい。
ジョン・マクファーレンによるセットは手前にかなり傾斜した灰色の舞台に、背景はターナーの絵を墨絵にしたような、荒涼とした天空を表す書き割り(ちなみに画家ターナーは詩人クラッブより21歳年下で「オールドバラ、サフォーク」(c.1826)と題する穏やかな作品がある)。この傾斜舞台に、場面に応じて、二枚の大きな黒っぽい壁を山形に(プロローグ)あるいはその逆のV字形(2幕1場の教会)等に、屏風のように配置していた。
プロローグは村(borough)の公会堂/集会所(Moot Hall)での検死審理公判の場面。ピーター・グライムズが漁で徒弟の少年を死なせた罪に問われている。裁くのは法律家で村長を兼ねるスワロー(久保和範)。ピーター(スチュアート・スケルトン)は子供用の棺桶を抱えているが、リブレットにこの記載はない。ピーターを不審の目で見つめる村人たち。両者の対立を視覚的に際立たせる隊列と動き。スワローをはじめ、村の集団を形成する人物たちの音楽は基本的にコミカル。一方、ピーターと、彼を支えようとするエレン・オーフォード(スーザン・グリットン)とのデュエットは叙情的。
切れ目なく間奏曲 I 「夜明け」が奏される。徐々に空が白んできクラリネットヴィオラの上昇し下降する音型で海鳥が鳴き、トロンボーンやホルンの微かなロングトーンが遥かな水平線を暗示するなど海を臨む漁村の様子が見事に描き出される。第1幕 第1場の幕が開くと、村人たちが客席の方に向かってきちんと並べられた椅子に座り、楽譜(歌詞)を眼前に掲げて歌っている("Oh hang at open doors . . ."にはじまる4行と、"Dabbling on shore half-naked . . ."の4行はクラッブの『町』から「書簡1 概要General Description」の引用)。ここは、リブレットでは海岸通りでの漁師や村人たちの日常生活を描くことになっているが、デッカーは会衆による合唱(賛美歌)の練習風景(?)に変更した。集団(共同体)が個人の行動を抑圧する構図を視覚化するためと思われるこの演出は、ラストの場面で決定的に活かされる。
やがて、手を貸すよう求めるピーターの声で、集団の秩序が乱される。船を陸へ引き上げるには一人では覚束ないのだ。村人たちは無視するが、退役船長のバルストロード(ジョナサン・サマーズ)と薬屋/藪医者のネッド・キーン(吉川健一)が手を貸してやる。そんなピーターのために、キーンが「救貧院」で新たな徒弟の少年を見つけてやったという(字幕=対訳は「孤児院」と訳しているが、原語の workhouse は児童に限らず生活困窮者一般を扶養する「救貧収容施設」で、労働能力者には労役を課す「労役場」でもあり、教区民から徴収する救貧税で運営された)。メソジストの漁師ボブ・ボールズ(高橋淳に代わり糸賀修平が好演)は、子供が金で取引される状況をキリスト教国にあるまじきことと非難する。その少年を迎えに行く役目をエレンが買って出るが、村人たちは反対する。近づく嵐。村人たちの恐怖。だが、ピーターだけは嵐を歓迎するように目を輝かせる。村人たちは嵐への怯えをピーターにぶつけるように歌い退場する。ピーターと嵐(自然)との親和性を強烈に訴える演出。
村人たちの噂話に孤立するピーターはバルストロードには内なる思いを吐露する(台本作家のモンタギュー・スレイターはブリテンへの手紙で、バルストロードの本作での役割を『ハムレット』におけるホレーシオになぞらえている)。集団から外れたピーター、彼を支えるエレン、ピーターの理解者で二人を見守るバルストロード。こうした人物の位置関係がこの場で音楽的にもプロット的にも、また効果的な演出により視覚的にも明確になる。
間奏曲 II「嵐」に続き、同幕 第2場は嵐のなかパブ「ボーア亭」の場面。嵐から逃れて村人たちが次々に入ってくる。酔っぱらいの喧噪のなか、奧のドアが開く度に外の強風を表す音楽が楽しい。酔って乱れるメソジストのボールズに、バルストロードがパブの〝作法〟を歌で教える。ピーターの小屋近くで崖崩れが起きた報せ。やがてピーターが戸口に登場し、音楽が一変。このとき村人たちがドアを支えるが、強風の勢いに負けてドアが開くと、そこにピーターが立っている。まるでピーターが嵐の化身であるかのような演出。逆光のなかピーターの巨大なシルエットが下手壁面に映り「大熊座とすばる星」のアリアを歌う。スケルトンは前半の繊細な弱音と後半の荒々しく激しい歌唱を見事に歌い分けた(ただしこのアリアの字幕=対訳にはかなり疑問があるが、詳細は次回以降に)。そんなピーターを忌避する村人たち。やがて、少年を連れたエレンたちが戻ってくる。ピーターは嵐のなか少年を連れて小屋へ去っていく。スケルトンのピーター造形は無骨で乱暴だがイノセントな精神を有し、どこか「知恵遅れ」を模したような感触が残った。
ここで25分の休憩。
風邪で体調不良のため、続きは明日以降に(新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(2)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も - 劇場文化のフィールドワーク 新国立劇場オペラ『ピーター・グライムズ』(3)質の高い上演/字幕・対訳には疑問も - 劇場文化のフィールドワーク)。