野田秀樹『エッグ』/演劇性と劇場キャパシティの関係について

野田秀樹の新作『エッグ』を観た(9月7日/東京芸術劇場プレイハウス)。
作・演出:野田秀樹/音楽:椎名林檎/美術:堀尾幸男/照明:小川幾雄/衣装:ひびの こづえ/音響・効果:高都幸男/振付:黒田育世/映像:奧秀太郎/美粧:柘植伊佐夫/舞台監督:瀬崎将孝/プロデューサー:鈴木弘之
主要キャスト:阿倍比羅夫(あべひらふ)=妻夫木聡/苺イチエ=深津絵里/粒来幸吉(つぶらいこうきち)=仲村トオル/オーナー=秋山奈津子/平川=大倉孝二/お床山(とこやま)=藤井隆/劇場案内係・芸術監督=野田秀樹/消田(きえた)監督=橋爪功

東京芸術劇場は1年半振りにリニューアル・オープンした。会場のプレイハウス(中劇場)は名称共々すっかり洗練され、世田谷パブリックシアターのよう。舞台セットも現実と地続きに〝改修工事中〟の設定。芝居は中年女性(野田秀樹)が修学旅行の女子高生らを劇場案内するシーンから始まる。その一人が偶々見つけた寺山修司の遺作原稿を、案内係が所望する。理由は愛人の芸術監督に貢ぐため。それは『エッグ』と題する未完脚本の生原稿だった。この原稿を媒介に、話はどんどん飛躍し、時空はもとより虚構の次元も瞬時に越境し往還する。例によって、野田はこうした場面転換に非凡な趣向を凝らすが、そこには独特の〝演劇的な快〟がある。野田が扮する劇場案内係から脚本『エッグ』を貢がれたらしい芸術監督(同じく野田秀樹)は、ある男に「エッグ」とは「壊れやすいボールを移動させるスポーツ」だと教えられる。この男はあろうことか脚本の登場人物で『エッグ』日本代表監督の消田監督(橋爪功)だ。そこへ、車椅子に乗った阿倍比羅夫妻夫木聡)とそれを押すシンガーソングライター苺イチエ(深津絵里)の「夫婦」が現れ、苺はいきなり歌いはじめる。その後、場面は試合会場のロッカールームに急変し、そこへ「エッグの聖人」阿倍比羅夫がストレッチャーで運び込まれ・・・。
こうして生原稿に綴られた物語が入れ子状に舞台化され、芸術監督の誤読(最初はジェンダーの、二度目は歴史の誤読)から〝メタ舞台化〟がやり直され・・・。登場するのは「エッガー」ことエッグ選手の粒来(つぶらい)幸吉(仲村トオル)や平川(大倉孝二)、謎めいたオーナー(秋山奈津子)や歌手の付き人お床山藤井隆)等々。
歌とスポーツ競技(対戦相手は中国)、両者への大衆の熱狂、そしてナショナリズム。そこにジェンダーや歴史の問題が絡み、やがて戦争へ。満州、開拓団、731部隊、人体実験等々。〝丸太〟(被験者)たちが半透明のカーテンのなかで死んでいくシーンはナチス・ドイツによるユダヤ人らのガス殺を想起させるが、じつに美しい。敗戦後、小道具として何度も登場したロッカーを最後は貨車に見立て、人々が機関車音と共に逃げていく場面は秀逸だった。すべての黒幕たるオーナーの「さあ、歴史から逃げていきましょう」という言葉がたいへん印象的。
個人的には戦争の色が出始めてやっと面白くなった。野田の観客層は若い、それも女性が圧倒的に多い。たとえば、粒来幸吉の名から、東京オリンピックのマラソンで最後に抜かれ銅メダルを獲り、四年後の五輪開催直前に「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」との遺書を残し自死した自衛官円谷幸吉〟を連想した者は、あまりいなかっただろう。前半は、そんな彼女らを旬の役者やエンターテインメントで惹きつけつつ、後半の戦時の満州国731部隊等の問題に向き合わせようとの意図が感じられた。「歴史から逃げていく」国民性に抗って。ただ「スポーツと音楽の融合」(HP)というわりに、後者の印象は薄かった。深津の歌唱(良くも悪くも声が〝若い〟)も椎名林檎の曲も野田秀樹の歌詞も悪くないが、見終わってみると、あまり印象に残っていない。前半のエッグ競技のロッカールーム場面はやや単調に感じられ、エンターテインメント性は不十分だったかも知れない(ただし平川扮する大倉孝二は身体=無意識をコントロールできる希有な役者だ)。
2階3列目で見たせいか(希望したわけではなく会員抽選予約でこの席に)、目と頭のみで身体的な体験とはならず、総じて演劇的快楽が乏しかった(思わず頬が緩むことは皆無)。プレイハウスのキャパシティを調べてみると834席とのこと。満州生まれの別役実は、演劇の質と劇場の収容人数に関連し次のようにいっている(『ベケットと「いじめ」——ドラマツルギーの現在』岩波書店,1987年)。

現在はどちらかというと舞台でも、マイクロホンなどを使って1000人なら1000人の観客に等分にその情報を伝えようとするのですが、ある意味からいうと、演劇的な言語性は無視されることになりかねない、ということがあります。1000人の小屋でやる芝居となると、どうしてもショーになったり、ミュージカルになっていったり、等身大の人間から人間的な要素が伝わってくる要素ではなくなってきているというのは、おそらくこういう要素が無視されているからだという感じがする。
・・・おそらく200人から300人の劇場の中でしか演劇というのは成立しない状況が、もうそろそろ生まれているだろうし、もっとさらに明確になっていくだろうという感じがする。
200人から300人の劇場の中で演劇が行われることによって、「だれが、どんなふうに」という部分がもう少し雄弁に伝わってくる。これを超えてしまうと、「何を」という部分しか伝わっていかなくなる。

別役は「だれが、どんなふうに」のほうが「何を」よりも演劇的に重要だと考えている。言葉やモノの「指示性」よりも「存在感」の方を、吉本隆明の言葉でいえば、「指示表出性」より「自己表出性」のほうを、重要視するということだ。上記の発言は四半世紀も前のものだが、21世紀に入っても、別役の考えは基本的に変わっていない(『別役実の実験演劇教室——舞台を遊ぶ』白水社,2002年)。

私は・・・劇場は300人から500人を収容するものまでに限る、と考えている。収容能力がそれ以上になると、「等身大の人間から等身大へ」という、その基本的な構図が損われ、「演劇」とは言えなくなる、と考えているのである。
「科白」と言われる、仕草を伴う「音声言語」の到達限界を、私は300人まで、と考えている。劇場を500人までとしたのは、残りの200人について、濃密に体験した300人の、「増幅作用」のようなものを期待しているからにほかならない。

別役のいうとおりだとすれば(今公演でそれを再確認したのだが)、プレイハウスの834席という数字は微妙である。細かく見ると、この劇場の1階席は631席。1階だけなら、半数の300人が舞台を「濃密に体験」すれば、それが「波状的にうねって」残りの半数にも伝達されたかも知れない。ただ、2階からは、階下でそうした「うねり」が生じていたのか判断できない。いずれにせよ、2階に「波動」が伝わらなかったことだけは確かである。
やはりプレイハウスは名称にもかかわらず演劇公演には少し大きすぎる。興行の問題もあるだろうが、理想をいえば、芸劇ならシアターイースト(小劇場)で観たかった。ここは272〜286席だ。ちなみにパブリックシアターは600席、シアタートラムが225席。新国立の小劇場は形状にもよるらしいが358〜465席との由。個人的には新国立小劇場がもっとも〝演劇的効率〟がよいと感じる。新国立中劇場(1010〜1038席)での演劇公演は、かなり高い確率で不発だった。
野田秀樹の初期(夢の遊民社)を見ていないのでなんともいえないが、近年よいと感じた『The Diver』はシアタートラムだったし、『The Bee』の水天宮ピット大スタジオも300以下だと思われる(2012-05-01)。ただ、ある意味、野田の作品はミュージカルのような趣きとも無縁ではないし、別役のいう「演劇的な言語性は無視」しても、野田独特の演劇的「うねり」を生み出す自信があるのかも知れない。別役も、波状的な伝達が「最も理想的に行われるのなら、劇場の収容能力は500人を限界とはせず、何万人を集めてもかまわないはずである」といっている。かつてのギリシアやローマの野外劇場のように。とすれば、問題は、劇場のキャパシティではなく、いかに波状的なうねりを起こしうる質の高い演劇を実現するか、ということになる。結局は演劇性の問題に帰着する。