世界バレエフェスを見なくなった訳/日本人は創作の追随者か/オペラ・バレエの引越公演/『文化からの復興』/地続き文化論

世界バレエフェスティバルを見なくなった。といっても観たのはほんの僅かの期間にすぎない。初めて見たのは12年前の第9回(2000年)で、A・Bプロを見た。第10回(2003年)も同様だ。第11回(2006年)はAプロのみ。第12回(2009年)に至ってはシムキンが出演した全幕特別プロ 『ドン・キホーテ』のみ。ガラは一度も見ていない。そういえば、オペラの引越公演もあまり見なくなった。
なぜ足が遠のいたのか。コストとベネフィットが見合わなくなったからといえばそれまでだ。バレエの場合、たしかに、圧倒的なスターダンサーたちが全盛期を過ぎ、徐々に姿を消していった。それもあるが、それだけではない。そうしたポジティヴな要素(ベネフィット)が減少したことで、つねに伏在したネガティヴな側面(コスト)がより顕著になってきた。高額なチケット代だけではない。むしろそれ以上に、主催者の、また、それに同調する観客の、〝世界観〟もしくは〝価値観〟への異和。この異和は、舞台上の人選や観客席やチケット予約の際等々、いたるところで感受してきた。それをあえて言語化すれば、ブランド/欧米至上主義もしくは権威主義、自国文化(日本人アーティスト)への軽視/蔑視・・・ということになろうか。後者は、前者の度合いに比例する。
舞踊史研究家の薄井憲二氏は『国際バレエ辞典』にこう書いていた。

・・・いま東京バレエ団に欠けているのは、日本人振付家作品を上演する、真の意味での日本のバレエ団を樹立しようとするヴィジョンである。もちろん東京バレエ団の成功は日本にとって誇りではある。しかし、このバレエ団が日本人の芸術的手腕に対する信頼を決定的に欠いているのを見ると、悲しくもあり、少々皮肉でもある。フランス人ベジャールの『ザ・カブキ』やアメリカ人ノイマイヤーの『ハイク』のような作品を見るのは、ある意味、侮辱的である。日本古来の独自の文化を格下げしたり捨て去ることは、ただ[日本についての]ステレオタイプを促進し、日本人は創作の追随者であって、その主導者ではないという誤った考えを存続させることにしかならない。(Kenji Usui, International Dictionary of Ballet, Vol. 2, Martha Bremser ed., St James Press, 1993, P. 1424)

私が感受してきた異和の根は、約20年も前に、達意の文(英文)ですでに言語化されていた。
もちろん欧米のオペラやバレエの引越公演は、世界最高峰の舞台を日本の聴衆観客に届けてくれる。日本に居ながら、欧米の優れた舞台芸術を楽しみ、〝世界の水準〟を肌で実感することができる(大枚をはたくという条件付きだが)。この意味で、オペラやバレエの引越公演に一定の意義があったことは論を俟たない。

現在日本のオペラ制作関係者やオペラの観客を育ててきたのは、これらの劇場による引越公演であったと言っても過言ではない。

6年前こう述べたのは、NBS(日本舞台芸術振興会)/東京バレエ団の制作プロデューサーとして、また世界の主要歌劇場やバレエ団の引越公演の制作プロデューサー兼技術監督として活躍した広渡勲氏である(広渡勲・石田麻子「日本における海外招聘オペラ」『オープン・リサーチ・センター整備事業 研究成果報告書——海外主要オペラ劇場の現状調査・・・』昭和音楽大学オペラ研究所,2006年)。ただ、引越公演でベネフィットを得たのは〝日本のオペラ〟ではなく、「オペラ制作関係者」という一部の専門職と、高額チケットを入手可能な一部のオペラ愛好家(批評家を含む)に過ぎなかったと解せる点に注意すべきだ(バレエの場合もしかり)。だが、昭和音楽大学教授として研究総括者を務めた広渡氏は、この章の結論を次のように結んでいる。

今後、新国立劇場の存在が増すことにより、これまでの日本における特殊な海外招聘オペラ公演制作や、現在供給過多とも言える海外招聘オペラ公演にも変化をもたらすのではないだろうか。新国立劇場が、歌劇場としての存在感と芸術的成果を積み、欧米と同じようなオペラ公演づくりの拠点になるべき時期に来ている。(強調引用者)

これは、「日本における海外招聘オペラ」の〝特殊な〟状況を論じた研究として至極まっとうな結語である。だが、日本で生活し、オペラやバレエに喜びを見出している一般の観客からすれば、幾分まどろっこしい言い回しではある(氏の経歴からすればその〝まどろっこしさ〟は充分理解できるが)。一般観客の切なる思いをそのものずばり代弁してみせたのは、皮肉にも日本人ではなかった(いつものことだが)。同じく6年前、当時パリ・オペラ座の総裁だったジェラール・モルティエは、同じく昭和音楽大学オペラ研究所が主催した公開講座の質疑応答で、「伝統のない日本でオペラをやる可能性はあると思いますか、現状は欧米の物まねばかりみたいな気がするのですが」との質問に応え、次のように発言した(『公開講座——オペラ劇場運営の現在・フランス——伝統と前衛、実験する歌劇場 講義録』昭和音楽大学オペラ研究所,2006年)。

日本のオペラの現状について私はあまり詳しくはないので、意見を申し上げることはちょっとできないと思うのですが。ただ、日本ならではのすばらしいオペラの演出、プロダクションは十二分に可能だと考えています。映画の話に戻りますが、日本にはすばらしい映画監督がたくさんいますし、その中でもオペラを十分に演出できる監督がたくさんいます。また、指揮者も日本人の方で一流の活躍をされている方はたくさんいますし、欧米の劇場、我々のパリ・オペラ座にも出演していただいている日本人の歌手で、すばらしい方、一流の方がたくさんいるわけです。
ですから、これだけすべてのファクターがそろえば日本ならではの、すばらしい一流のプロダクション、世界的なプロダクションができると思います。これは、きのうマスコミの方々にも申しましたが、日本の音楽愛好家の方たちは、少し海外からの高い引越公演にお金を出すことをやめて、そのお金を日本のオペラの育成にもう少し投資したほうがいいのではないかと思います。(拍手)そのお金があれば、これだけの才能がたくさんそろっている国ですから、ニューヨークにも匹敵しうる超一流の世界的なプログラミングが、欧米の模倣ではなく、東京ならでは、日本ならではのオペラの制作が可能だと思っています。
なぜそれが実現しないのか、私は不思議でなりません。建築1つ取っても、パリでは町の中で一流の日本の建築家たちがたくさんの建物を建ててくれています。こうした才能をなぜ日本で集中、結集できないのかということが非常に不思議でなりません。
また、オペラの将来性を考えた場合に、これからの若いジェネレーションの方たちに、日本におけるオペラというものは、もはや輸入された芸術ではなく、日本文化の芸術、数ある日本で育っていった芸術の1つに今や含まれているのだと、自分たちの芸術の1つなのだということを意識できるような環境を整えていく必要があるのではないでしょうか。
(強調引用者)

なんと理にかなった真っ当な発言だろう。モルティエの至極真っ当な発言は、オペラに限らず、日本のバレエ界やひいてはオーケストラ等についても当てはまる。オペラもバレエも一流の「才能をなぜ日本(オールジャパン)で集中、結集できないのか」「日本人は創作の追随者」などではなく、「その主導者で」あること(薄井憲二)をなぜ示せないのか「非常に不思議でな」らない。そのことで最も不利益を被っているのは、チケットを購入して劇場へ足を運ぶ一般の観客である。モルティエの真っ当な驚き(不思議)は、〝自国の文化を尊重し敬愛する〟という至極まっとうで理にかなった前提を共有していないかにみえるこの国の舞台芸術〝業界〟および(一部の)愛好家に向けられている。モルティエの、したがって、われわれのこの真っ当な驚き(発言)に「あいた口がふさがらなかった」と毒ついたのは、周知のとおり、他ならぬ当業界に君臨してきた「起承転々」の著者であった(http://www.nbs.or.jp/nbs_news/vol231.pdf)。この反応は、モルティエの盲目の矢が的を射貫いたことを告げてもいよう。このコラムは読むと嫌な気分になるので出来るだけ避けてきたのだが・・・。ただ、この〝日本のディアギレフ〟(新書館の帯は彼をそう呼ぶ)は「日本の状況を把握していない人が、無責任な発言をするのは、いたずらに混乱を招くだけだ」と断じているが、そもそも自国の文化を尊重しない(独自の文化を格下げしたり捨て去る)業界のあり方こそが、「いたずらに混乱を招」いてきたのではなかったか。
だが、こうした議論も6年前の話にすぎない。状況は少しずつ変わってきていると思う。特に2011年3月11日以降はそういえる。オペラにせよバレエにせよ、日本が自国のアーティストを育ててこなかったツケを一気に支払わされた舞台芸術の苦境はいまだ記憶に新しい。この危機から〝業界人〟も愛好家も考え方の〝転回〟を迫られたように感じる。先般、『文化からの復興——市民と震災といわきアリオスと』いわき芸術文化交流館アリオスニッセイ基礎研究所編(水曜社)の刊行を、日経新聞のコラム「文化往来」(2012.8.16/筆者はおそらく内田洋一氏だろう)に教えられた。本書を読みながら、なんども胸が熱くなった。いわきアリオスという劇場が、震災・原発事故にどう対応したかをまとめたものだが、そこには、社会の中で芸術文化がどうあるべきかについて、貴重な示唆が数多く含まれている。
前書きに、「大都市に立地し「創造型」と呼ばれる劇場といわきアリオスは必ずしも同じ方向を向いていない。芸術専門施設としての活動よりも、いわきという地域とそこに暮らす市民にとっていかに役立つ施設になれるか、それが最優先されている」とある。だが、大都市に立地する新国立劇場なども、東京という地域もしくは日本という国に暮らす市民にとっていかに役立つ施設になれるか、それを最優先に考えるべきだと改めて確信した。いわきアリオスは「鑑賞・創造系事業(みる・つくる)」「普及・アウトリーチ系事業(ひろげる・ふれあう)」「育成・支援系事業(そだてる・ささえる)」の3本柱を事業方針に据え、「プロデューサー制度」を導入しているとの由。「文化の殿堂」ではなく「屋根のある公園」を目指してのこと。殊に震災・原発事故後の「おでかけアリオス」が印象的だ。市民や学校からの聞き取り調査をしっかりおこなったうえで、小中高へ演劇やダンスなどのワークショップやコンサート等を届けるアウトリーチ事業である。全館再オープンの11月1日、シルヴィ・ギエム東京バレエ団がおこなった「福島特別公演」についても報告されている。

約8ヶ月ぶりの有料公演ということで、客席誘導を担当するフロントスタッフたちも緊張していた。万が一に備え、みんなで避難経路を確認した。11月といえば、まだ国際的な大物アーティストが来日を控えていたころだ。世界最高峰に君臨するダンサーが「FUKUSHIMA」を訪れるということで、国内外のテレビ、ラジオ、新聞等のマスコミが大挙して押しかけロビーで待機していた。開場。おしゃれに着飾ったバレエ愛好家の親子連れが、いくぶん表情をこわばらせながら、中劇場に帰ってきた。開演5分前には、全員が席に着き、今か今かと「女王」の登場を待った。遅刻者なし。劇場全体が窒息しているようだった。
ボレロ」の序盤で、ギエムさんは客席の一人ひとりに目を合わせ、「大丈夫?」と話しかけるように踊った。そして後半では、長い手足を振り乱し、しならせ、みなを鼓舞するように、凄まじいエネルギーを吹き込んだ。東京から駆けつけたジャーナリストが「こんなギエム見たことがない」と嘆息した。憑かれたように歓声をあげ、拍手を贈る満員の観衆たち。終演後のロビーには、開演前とはうって変わって、満面の笑顔と涙を浮かべた観客たちが、なかなか帰路につかずに語りあう姿が見られた。寒空の楽屋口前では、ギエムさんの「出待ち」をする子どもたちが長蛇の列をつくっていた。彼女は子どもたちをバックヤードに招きいれ、一人ひとりにサインをし、手を振って旅立っていった。

この少し前に東京文化会館でおこなわれたギエムらの東日本大震災復興支援チャリティ・ガラ〈HOPE JAPAN〉も印象的だった。それにしても福島で踊るのは簡単な決断ではなかったろうに。だが、ある知人は「ギエムはロックだから」と言っていた。なるほど。
「オール・ニッポンバレエガラ」についても記されている。「12月28日の中劇場では、バレエダンサーの西島千博さんなど国内を代表するダンサーが集った「オールニッポンバレエガラコンサート」が無料で開催された」。
『文化からの復興』から受けた感動は〝対話〟(交流)という鍵語に集約される。市民とアーティスト、両者を媒介する劇場スタッフ(ファシリテーター)。市民参加による企画会議「アリオス・プランツ!」や「アートおどろく いわき復興モヤモヤ会議」等々。ただし、対話というからには、相互的でなければならない。芸術専門施設の場合も同様だ。舞台をただ一方的にありがたがるだけでは足りない。もちろん客席は、舞台から様々なものを与えられる。が、同時に、客席から舞台へ様々なものを送り返すのだ。アーティストを育てる喜び。これは、歌舞伎ファンなら昔から誰でも知っている。欧米劇場の引越公演には、この喜びが皆無とはいわないが、あまり期待できないだろう。ギエムですら、彼女を育てたのは残念ながらわれわれではなく、パリ・オペラ座や英国ロイヤル・バレエ等の観客たちである。客席と舞台とが、文化的に地続きであること。この点が重要である。グローバルな時代であろうと、文化とは、ある意味、ローカルなものである。この問題を煎じ詰めれば、ガダマーやハイデガーの思想に行き着くのかも知れないが、そこまで論じる余裕はない。代わりに詩を取りあげたい。
谷川俊太郎の「アリオスに寄せて」(2008年)と題する四篇の組詩が『文化からの復興』に掲載されている——「いまここ」「舞台に 舞台から」「ハコのうた」「場」。いずれも、舞台芸術の勘所を押さえたすばらしい詩篇だ。このなかの一篇を掲げて終わりにする。

舞台に 舞台から


土足で上がるのだ 舞台に
田んぼと劇場を地続きにするのだ
足裏は知っている
板の下 奈落の下 コンクリートの下
人々の意識の下に この星のマグマがたぎっていることを


出て行くのだ 舞台から
風神雷神となって創造の嵐を起こすのだ
タマシイは知っている
目に見えないもの 耳に聞こえないもの
コトバにならないものが 誰にでもひそんでいることを