小林紀子バレエ・シアター ケネス・マクミラン振付『アナスタシア』全3幕/全幕としては失敗作

小林紀子バレエ・シアターの創立40周年記念公演『アナスタシア』全幕を観た(新国立オペラ劇場/8月19日)。
芸術監督:小林紀子/監修:デボラ・マクミラン
リハーサル・ディレクター&ステイジド・バイ:ジュリー・リンコン
音楽:ピョートル・チャイコフスキー&ボフスラフ・マルティヌー電子音楽編曲:西ベルリン技術大学研究所
美術:ボブ・クロウリー/照明デザイン:ジョン・B・リード/衣装・装置提供:ロイヤル・オペラハウス
指揮:渡邊一正/東京ニューフィルハーモニック管弦楽団
これが日本初演とのこと。もちろん今回初めて見たのだが、なんといったらよいか。見た直後の感想は、全幕としては失敗作。これが正直な印象だ。だが、最終幕には面白いところもあるし、なによりマクミラン・ファンとしては、なぜこのような作品が創られたのか知りたくもある。そこで、少し調べてみた。
まずは本作の創作経緯について。エドワード・ソープ『ケネス・マクミラン——人とバレエ』(1985)等から該当箇所を拾ってみる。元々『アナスタシア』はベルリン(オペラ・バレエ)へ移ったマクミランが、新作『眠れる森の美女』の上演延期で生じた穴を埋めるべく、急遽、トリプルビルの一作として創作した一幕ものだった(1967年)。すでに『眠り』の制作に厖大な額をつぎ込んでおり、新作に充てる費用はどこにもない。たまたまマクミランはアナ・アンダースンの物語を読んでいた。ベルリンの病院で生活していたアナは、自分が皇女アナスタシアであり、1917年、エカテリーナ宮殿の地下室で起きたボルシェビキによる皇室一家惨殺の唯一の生き残りであることを信じ、そう主張した。マクミランは、病院に隔離されたこの女性の苦境に心を動かされ、興味をそそられる。社会に拒絶されても自らの信条と信念に固執するもうひとりのアウトサイダーに(アナに自分を重ねたのだろう)。これがマクミラン新作のテーマとなり、表現主義的形式で創られた。病院の荒涼たる世界に閉じ込められたアナスタシアの心の内部で、思い出や出来事が、いわば、一続きの場面となって想起されるという形式で。とすると、最終幕の興味深い形式を引き寄せたのは、アナ(アナスタシア)の苦境という主題だけでなく、セットに費用をかけえない物理的条件も一役買ったのか。
この一幕ものを、ロイヤル・バレエに芸術監督として戻った際、新たに二つの幕を加え、三幕仕立ての大作に拡張した(1971年)。ソープによれば、マクミランの意図は二つ。ひとつは「アナ・アンダースンの病院幽閉へと至った時代背景や状況をいささかなりとも示」し、同時に、「コヴェント・ガーデン・カンパニーの堂々たる威勢を示すような三幕仕立ての新作を上演するため」。なるほど。ちなみに、ロイヤルバレエで18年振りに本作を再演した1996年5月公演のレヴューを読むと、今回の全幕は、この1971年版の1・2幕に数カ所カットを施した改訂版とみてよいだろう。カットについては生前マクミランが再演計画時に議論し、それをデボラが監修しておこなったとのこと(リネット・ヘイルウッドhttp://www.ballet.co.uk/old/lh_rev_rb_0596.htm)。
やっとここから今回の公演メモ。
第1幕は、ニコライ2世一家の幸福そうな様子を捉えた無音の資料映像から。どのシークエンスでも最後に少女アナスタシアがフォーカスされその表情がクローズアップされる(本作がアナ=アナスタシアを確信して作られているのは明か)。幕が開くと「皇室所有の船スタンダルト号上にて,1914年8月」の場面。双頭の鷲の紋章を記した煙突が斜めに突き出たデッキ。ロイヤル・ファミリーにラスプーチンとおぼしき怪僧(後藤和男)や皇后の友人アンナ・ヴィルボヴァ(大和雅美)、それに海軍士官たちがヨット船上で〝ピクニック〟をしている。そこへ白い帽子を被った少女がローラースケートで登場。皇女アナスタシアのお転婆ぶりを島添亮子はよく出していた。士官のひとり(アントニーノ・ステラ)とアナスタシアの踊り。海水着の士官らが海へ飛び込む。後半にセーラー服の皇太子アレクセイ(情野詠太)が転び、血友病ゆえに心配して駆け寄る皇后アレクサンドラ(萱嶋みゆき)。ラスプーチンが祈祷で転んだ皇太子を立たせる・・・。チャイコフスキー交響曲第1番に沿って、こんな感じて進行し、第一次大戦勃発の報せが入り、幕となる。要するに登場人物の紹介と背景説明のような幕。チャイコフスキーの習作がやや単調で退屈なのと同様に、バレエ自体も単調で退屈。インスピレーショナルな動きは見出せなかった。ただし、矛盾するようだが、渡邊一正=東京ニューフィルハーモニックはたいへんよかった。
第2幕は「ペトログラード,1917年3月」。幕前で貧しい農民たちの困窮振りが提示され、そのうちの数人がカーテン越しになかを覗くと、幕が上がる。すると、外とは対照的に、豪華なシャンデリアの下で皇女アナスタシアの社交界デビューの祝宴が催されている。三つのシャンデリアは、歪んだ視線が捉えたように斜め手前を向いている。下手には小さな丘陵のような盛り上がりが、上手奧には宮殿玄関が見える(幕切れではここから革命勢力が乱入し、スローガン入りの赤旗が掛けられることになるだろう)。皇帝は、かつて恋人だったプリマ・バレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤ(高橋怜子)を招待している。彼女とパートナー(ステラ)のパ・ド・ドゥ。それを不機嫌に見つめる皇后。その後、皇帝夫妻とラスプーチンの三人で踊る。そこへクシェシンスカヤが登場し、皇帝と元恋人、皇后とラスプーチン(皇后の心酔者=恋人)が踊る。さらに、クシェシンスカヤのパートナーが加わり、クシェシンスカヤとそのパートナー、皇帝と皇后が踊り、ラスプーチンがその四人を包むように関わる。こうしたややこしい〝大人の関係〟を、アナスタシアに背後から見つめさせる趣向は、彼女の思春期の心情を視覚化するうえで効果的。やがて、戸外でビラを撒いたり、赤旗を振ったりしていた革命勢力が宮殿に乱入して幕(この幕切れは、フランス革命を扱ったジョルダーノのオペラ『アンドレア・シェニエ』を想起させた)。この幕ではチャイコフスキー交響曲第三番が使われた。1幕ほどではないが、やはりいまひとつ。1幕同様、ここには状況はあっても、振付家のインスピレーションを刺激するような明確なプロットが、したがって人間感情の機微が不在である。クシェシンスカヤの高橋は、踊り自体に、皇后を嫉妬させるような色気がほしい。パートナーのステラはまずまずか。
第3幕は「数年後」。音楽はマルチヌーの交響曲第6番「交響的幻想曲」と古風な電子音楽。何もない空間の中央にスチール製のベッドが置かれ、その上に、グレーの囚人服まがいのものを身につけた女がいる(アメリカへ流刑になったマノンのよう)。自分をアナスタシアだと信じる女が(島添亮子)。他には看護婦たちと皇室の近親者たち。後者とアナ/アナスタシアの対立を示す動き。看護婦たちとアナは客席に背を向けて床に座り、壁に映し出される記録映像を見る。1幕と同じものに加え、人が銃殺される映像も。嘆くアナ/アナスタシア。病院の空間に革命軍の兵士たちやアナ/アナスタシアを助けた農民たちが現れる。アナの夫(中尾充宏)も。アナと夫の赤ん坊(人形)を交えたパ・ド・ドゥは興味深かった。赤ん坊と引き離されるアナ。アナスタシアの家族やラスプーチンも登場する。アナスタシアの両親や姉妹、弟が銃殺される場面も。夫も殺される。この幕では、夫やラスプーチンとのパ・ド・ドゥ等で、2年前の『ロミオとジュリエット』(1965)や7年後の『マノン』(1974)を彷彿させるマクミラン独特の語彙が随所に見られた。特にリフトされたアナに。ラストは、アナが乗ったローラー付きベッドが回転するように動き出す。アナは背筋を伸ばし誇りを失わぬさま。部屋に突っ立った皇室一家を睥睨するように。3幕ではマルティヌーの音楽が、アナの精神の内側で生起するドラマを〝外へ表出〟(express)し立体化する「表現主義的」(Expressionist)趣向ととても合っていた。ここでも渡邊=東京ニューフィルハーモニックの響きは豊かで充実していた。
おそらく3幕だけ見れば、個性的な小品として高く評価できただろう。が、その前史というべき1・2幕を見た後に、3幕を見ると、物語の筋道(あまりはっきりしないが)を辿ってきた分、当然、その帰結を期待してしまう。だが、そこには、プロット的にはなんの帰結(オチ)もない。結末から創作するのは、ヴァーグナーやE・A・ポー等の例を俟つまでもなく何の問題もない。ただ、本作の場合、1・2幕と3幕ではフィクションとしての文法が違いすぎる。もちろん、第1次世界大戦(第1幕)および二月革命(第2幕)と、その後の世界(第3幕)との間の歴史的切断を示すため、あえて両者のスタイルを変えた理屈は理解できる。だが、実際に公演を見ると、はじめの二つの幕と第3幕とをどう結びつけたらよいのか定まらないまま、何もない空間での〝表現主義的〟世界へ迷い込み、宙づり状態が解消されることなく劇場をあとにする。そんな感じだった。
これが、アナ・アンダースンのDNA鑑定がなされる前なら、アナ=アナスタシアの視点から、革命前の幸せなありようを振り返るというシナリオにすんなり同化できたかも知れない。だが、アナがロマノフ王朝の血筋ではないことが証明された1994年以降だと、アナの意識とは無関係に、作者が超越的な視点から、背景説明として、提示しているに過ぎないことにならないか。ロイヤル・バレエは、96年の再演時に、先のDNA鑑定を受けて、1・2幕のセットを船の煙突やシャンデリア等を歪めたものに変更した(美術:ボブ・クロウリー)。自分をアナスタシアだと思いこんだアナの歪んだ意識を反映させるためだろう。今回われわれが見たのもこの変更版である。だが、アナスタシアとは別人のアナが自分のものではない過去の一コマを想起するというシナリオには、やはり無理がある。プログラムにはデボラ・マクミランの「アイデンティティ」と題する小文が掲載されていた。アイデンティティ・クライシスにまつわる部分には異存はないが、その解釈が、『アナスタシア』全幕版に妥当するとは思えない。ただし、第3幕のみについてなら話は別だが。
いずれにせよ、全幕版の一貫性の欠如は、ソープが伝えるマクミランの二重の意図に起因すると思われる。たとえば、第2幕の群舞などは、体格のよい西欧のダンサーが踊れば、パジェントリーとして「カンパニーの堂々たる威勢を示す」効果があったかも知れない。一方で、先に触れた〝大人の関係〟にまつわる趣向は評価できるとしても、そこに人間ドラマとしての濃密な内容を読み取ることはむずかしい。ソープによれば、1971年の全幕版初演に対する評価は「概して、思わしくなかった」。酷評した批評家も少なくなかったらしい。なるほど。今回の日本初演を見るかぎり、それも肯ける。アナ・アンダースンの主張が信じられていた初演時ですら、本作は批判されたのだ。それを、いまの日本で上演する意味はどこにあったのだろう。マクミランに興味を持つ観客なら(私はその一人だが)、日本初演とあっては喜んで見るだろう。〝勉強〟にもなる。ただ、一般のバレエファンからすれば、金額の割にあまり楽しめない時間となった可能性もある。ロイヤルで再演した96年でも劇場は一杯にならなかったようだ(ヘイルウッド)。
プログラムによれば、芸術監督が創立40周年の記念になる作品を探していたら、デボラが「ノリコ『アナスタシア』はどう」と言ったとか。本作の過去の受容について瞥見した後これを読むと、少々複雑な気持ちになる。売れ行きのよくない〝商品〟を、まんまと掴まされたのでなければよいのだが。プライベートなカンパニーとはいえ、国からの助成を受けての公演である。つまりは税金が使われているのだ。作品選定には、公演の社会的な意義も考慮し、もう少し慎重であってもよいのではないか。