8/6 世界平和への祈り 広島特別演奏会 奇跡的な沈黙

昨夜、標記の「読売日本交響楽団創立50周年特別公演」を上野学園ホール広島県立芸術文化ホール)で聴いた。
秋にカンブルラン=読響が取り上げる細川俊夫の『ヒロシマ・声なき声』を目当てに同響のHPを覗いたら、この特別演奏会について告知されていた。偶然にも同時期に広島へ赴く予定を立てていたのだ。原爆記念日に広島でレクイエムを聴くとどんな気持ちになるのか。その思いと、以前テレビで見た、神戸の震災犠牲者を追悼するN響コンサート(アシュケナージ指揮)で終曲後の沈黙が無残に破られたシーンが頭をよぎり、迷った。が、けっきょく行くことに。プログラムは以下のとおり。
バーバー「弦楽のためのアダージョ
モーツァルトフリーメイソンのための葬送音楽」 K.477(479a)
モーツァルト「レクイエム」ニ短調 K.626(朗読付き)
モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618
指揮:シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団
朗読:吉川晃司
ソプラノ:森麻季
メゾソプラノ:山下牧子
テノール:鈴木准
バス・バリトン:久保和範
合唱:広島平和記念合唱団(合唱指揮:松本憲治)

読響を聴いたのは久し振り。やはり「ハイライト」の味がした。初めてこのオケを聴いたとき、あまりにシブイので、かつて〝労働者煙草〟といわれていた「ハイライト」の味を思わず想起したのだ。しぶすぎる。特に弦楽器が。瑞々しさがまったく感じられない。バーバーも、そして管楽器が加わった「フリーメイソンのための葬送音楽」も印象は変わらない。カーテンコールなしに15分の休憩へ。
「レクイエム」には、薄田純一郎による『碑』の朗読が差し挟まれる。これは、広島への原爆投下で「勤労動員中に全滅した県立廣島二中(現在の県立広島観音高等学校)の1年生」について綴られたもの。当初は「朗読なんか要らないのに・・・」と勝手に決め付けていたのだが、予想に反し、実に効果的だった。「若い世代の悲劇」を広島出身の吉川晃司が精魂込めて読み上げる。それを広島の老若男女から成る合唱団員をはじめ四人のソリストたちもみな聞き入った後、「入祭唱」を、「怒りの日」や「思い出し給え」を、そして「涙の日」等を歌い、演奏する。やはり気持ちの入り方が違っていた。災厄に関わるテクストの読み上げと音楽を交錯させるやり方は、今年の五月に聴いた細川俊夫の『星のない夜』を想起させる(東京オペラシティコンサートホール)。これは、「四季の移ろいに人間が繰り返す災い ─ ドレスデン空襲と広島への原爆投下 ─ を重ね合わせた全9楽章」から成るオラトリオである。今回の朗読を交えた企画・構成が誰の創案なのかプログラムには記載がない。カンブルランが『ヒロシマ・声なき声』を世界初演している事実からすれば、彼の意向が反映しているのだろう。
オケはティンパニーの乾いた響きを含めピリオド奏法に近いあり方で演奏していた。合唱は広島県合唱連盟の加盟団体を中心に、オーディションで選ばれたメンバー(高校生から70代まで)との由。テノールには学生服姿が少なくなかったが、今回、特にこの男性合唱が瑞々しくかつ力強い歌声で耳に残った。女声、特にソプラノは高音が上がりきらず、残念。それでも、全体的に、やわらかくふっくらした歌いぶりで聴き応えがあった。
ソリストでは、メゾソプラノの山下牧子がプロの歌唱を聴かせてくれた。テノールの鈴木准は、つい先日、BCJで聴いたばかりだが、今回もまずまず。ソプラノの森麻季は、体調が万全でなかったのか、声がまったく響かない。後半はかろうじて持ち直したが。バス・バリトンの久保和範は歌の輪郭がサブスタンシャルに届いてこない。
今回は、「レクイエム」の後、そのまま接続して「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が演奏された。初めて聴く人には同じひとつの音楽であるかのように。そして、終曲。誰も音を発しない。かなり長い間、息を吐く音も聞こえない。カンブルランが、両腕を下げ、終わりましたとの合図を出してもしばらくは無音。それから、やっと少しずつ拍手が、やがて盛大なアプローズとなった。この沈黙はほんとうに美しかった。そこには祈りがあった。音楽はこの沈黙を味わうためにあるのだ。そう思った。読響やソリストの出来など、音楽的にはいまひとつの感がぬぐえない。だが、最後の奇跡的な沈黙は、〝災厄の地〟広島に生きる合唱団員のひたむきさとカンブルランの志の高さが現出させたのかも知れない。
8月9日は長崎ブリックホールでの長崎版「特別演奏会」。合唱は長崎平和記念合唱団(合唱指揮:松川暢男・猿渡健司・田代悟)、朗読は白石加代子が務める。なお、レクイエムに挿入される朗読テクストは、長井隆の『長崎の鐘』から青来有一が選定・編集したものになるとの由。合唱、朗読、テクストが変わるとどんなふうになるのか、ちょっと聴いてみたい気もする。