シー・イージェ(Shi Yijie)テノール・リサイタル 残念ながら・・・

水曜の夜シー・イージェ(石倚洁)のテノール・リサイタルを聴いた(7月18日/東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル)。ピアノは浅野菜生子。

数年まえ東フィルの定期でロッシーニの『ギョーム・テル』と『スターバト・マーテル』を聴いたときの感動は、アルベルト・ゼッダの存在ゆえだったのか(http://d.hatena.ne.jp/mousike/20120710/1341897819)。
残念ながら、そう考えざるをえないリサイタルだった。
石くんの歌は、声がわんわん響くだけで、メロディーラインがよく聞き取れない。衣を付けすぎた天ぷらの具材のように、なにがなんだか分からない。今回の席はいつもよりやや後目の14列目中央寄りだったが、その所為なのか。このホールではBCJの定期やデセイのコンサートなど9列前後で聴くことが多いのだが、こんな響きは経験がない(昨夜もBCJでジョアン・ランのクリアで活き活きとしたソプラノとロデリック・ウィリアムズの力強くかつノーブルで温かいバリトンを聴いたばかり)。とにかく音がやたらにわんわん鳴るだけで、声の実質が届いてこない。まるでバックステージで歌っているかのよう。まさか増幅していたわけではないだろう。彼の強い声にそんな細工をするはずもない。曲を追うごとに多少は軽減されたが、響きの違和感は最後まで消えなかった。
総じて、強い声をこれでもかと連発し、懸命に聴き手を圧倒しようとする。ふと北京オリンピックの開会式を想起した。これはかの国の文化なのだろうか。いずれにせよ、力んで声を強く響かせるだけではいっこうに音楽を感じない。モーツァルト? 楽しみにしていたロッシーニさえ、ホールには響いても心にはまったく響かない。レハールなどはその最たるもの。ドニゼッティ? そもそも弱音がサブスタンシャルにこちらの身体に触れて来ない。そんななかで多少とも音楽性を感じたのは、後半のグノー(『ファウスト』から「この清らかな住まい」)とアンコールの最初に歌った山田耕筰の「鐘が鳴ります」だけ。このとき初めてこちらの感情が動いた。フランス語/日本語で歌ったからか。だが、後者では前方左壁際からのフライング拍手で、音楽がかき消されてしまったが。
このあと二曲ほど中国の歌をうたったが、耕筰の歌とのコントラストから、魯迅が日本に留学した際、当時の日本食が中国料理とは真逆の貧しい〝粗食〟に難渋した話を想い出した。石くんが上海から日本に留学したとき、「鐘が鳴ります」のような油っけのない音楽文化にカルチャーショックを受けたかも知れない。そうした一見〝乏しい〟響きに生命を込めねば成立しない歌が石くんには必要なのではないか。リサイタルを聴きおえて、そう思った。
この夜は、先の壁際の御仁が何度もフライングし、あろうことか「人知れぬ涙」が歌われている最中に話をする御婦人方もおり、残念ながら総じて客席の質にも問題があった。
伴奏のピアノは、もっと歌手をけしかけ対話してもよかったか。
シー・イージェが天から〝声〟を賦与された逸材であることに変わりはない。これほど才能ある若手歌手は日本では寡聞にしてほとんど知らない。ぜひオペラの全幕で見(聴い)てみたい。新国立劇場がキャスティングする日を楽しみにしている。