昨夜『温室』の2回目を観た(7月13日)。
冒頭で段田安則=ルートがいきなり番号を間違えた。「6459号はどんな具合かね?」(正しくは「6457号」)。が、高橋一生=ギブズは何もなかったかのように応じる、「6457号でございますか?」/ルート「そう。」・・・。特に問題ない。二人ともさすが。
残念ながら、この舞台は回数を重ねて〝育つ〟種類の芝居(演出)ではなかった。基本的に初日の感想と変わらない(新国立劇場 演劇公演『温室』 「不安定さ」の感受自体が不安定 - 劇場文化のフィールドワーク)。
やはり最後の本省の執務室を除き、総じて台詞回しが重い。というか、気張って感情を込めようとするとき生じる〝重さ〟が気になった。演出家の深津篤史は、稽古場で「まず言葉のニュアンスを消し、そこから心理を足していく」といっていた(『日経新聞』2012.6.14)。だが、むしろ足し算せずに、感情を消したままの台詞劇を聴いてみたかった。いずれにせよ、この〝重量〟がわれわれ観客にのしかかり、出るはずの「笑い」も引っ込みがち。舞台上の人物間も、舞台と客席間も感情の行き来が滞り、重く、息苦しい。これが意図したものなら、その巧みさに惹き込まれ、頬が緩むはずなのだが。たとえ内容が笑みと無縁の深刻なものでも。
ラストの役人とギブズの対話に見られる軽快さ・軽妙さが、それ以前の、施設内の専門職員たちのやりとりにもあったなら、もっと笑いと不気味さが生まれたのではないか。
それとも、あえて施設内とその外部=本省をそうした差別化によって截然と色分けし、一番のワルが、本省の役人であることを際立たせようとしたのか。
この施設(病院)の最高責任者に収まるべく、現責任者のルートをはじめ専門職員を皆殺しにしたのはもちろんギブズである(たぶん)。しかも、その濡れ衣を若いラム(Lamb=子羊)=橋本淳に着せて。だが、そのような権力闘争や殺人にうすうす気づきながら見て見ぬふりをする非人間的な高級官僚のロブ=半海一晃こそ、諸悪の根源である。たとえば、ルートらが殺された理由をギブズに尋ねながら、その説明を最後まで聴かずにロブは部屋から出て行く。この演出は秀逸だった。彼は人の命などじつはどうでもよいのである。机上がすべてで、いわば人の身を勘定に入れない役人的思考。そうした頭でっかちのいびつさを台本にない〝びっこ〟で表象し、国を動かすエリート官僚の気持ち悪さを、半海は舌を巻くほど巧みに現出させていた。ここから見ると、ルートをはじめ、彼を取り巻く専門職員たちが〝あまりに人間的〟に見えてしまう。繰り返すが、これは意図的なのか。
それにしても、ギブズによる専門職員皆殺しには、リアリティを感じない。もともと本に、それだけの客観的相関物が書き込まれていないと言うならそれまでだが。少なくとも今回の舞台におけるギブズの人物造形には、そこまでの悪を担う器量は見られなかった。だがこれも、犯罪の重さに比して内面性の希薄な犯罪者が少なくない現在をリフレクトしようとした結果なのか。
ハロルド・ピンターの芝居は、80年代に池袋の文芸座地下にあったル・ピリエ等で吉岩正晴演出を中心にずいぶん観た。が、『温室』は今回が初見。だが、なぜ劇場はピンターの代表作とは必ずしも言えない『温室』を取りあげたのか。おそらくピンター作品に初めてふれる人(特に若い世代)が少なくない新国立の、適切な選択だったのだろうか。