新日本フィル定期演奏会 トリフォニー・シリーズ第1夜/内面と外面のコントラスト/昨年のハーディング

新日本フィルの#497定演を聴いた(7月6日・トリフォニーホール)。指揮はダニエル・ハーディング。曲目は、シューベルト交響曲第7(8)番 ロ短調「未完成」D759と、リヒャルト・シュトラウス交響詩英雄の生涯」op.40。コンマスは崔文洙。
「未完成」は少し速めのテンポ。木管のソロは抑え気味で、むしろ弦の濃密な響きを重視。このオケは特にアルミンクのもとでは曲目にもよるが総じて明るく甘い音色だが、今回はやや暗めを志向。二楽章の終結部で1stクラリネットが集中を欠いたのは残念だが、それなりに深みのある引き締まった演奏だった。
後半の「英雄の生涯」は、前半と真逆の豪華で外面的な響き。内面的なシューベルトを味わったあとだと、いかにも装飾的な印象が強い。十年ほど前、元同僚で音楽をこよなく愛したT氏が「リヒャルト・シュトラウスゲルギエフはどこがよいのか分からない」とよく言っていた。後者については強く同意したのだが、前者については留保したことを想い出す。今回ハーディングの演奏を聴きながら、今は亡きT氏の言う意味が分かる気がした。だが、ハーディング指揮のもと、部分的には面白いところがいくつかあった。たとえば、フルートが思い切り下品なパッセージを奏でる「英雄の敵」。批評家たちを〝くだらないおしゃべり〟と見立て揶揄しているのだろう。他にも後のオペラを彷彿させる興味深い箇所が随所に聴かれた。この作曲家(特に交響詩)はオケの機能美を楽しむものだとあらためて気づかされる。ただ、そのためには最高の演奏技術が前提となろう。ここまで大編成になるとエクストラ(客演)がかなりの数に上り、完成度や仕上げの点ではやや問題があった。この日の演奏は木管がいまひとつ(いつもはもっと質が高いのだが)。チューバは不安定(土台は大事)。ホルンはよい。ヴァイオリン・ソロの崔文洙は名人芸で健闘したが、如何せん、音色がシュトラウスの華やかさとは異質の感があった。
ハーディングは1999年のエクサンプロヴァンス音楽祭引越し公演『ドン・ジョヴァンニ』(オーチャード)で初来日して以来、何度か彼のコンサートに足を運んできた。ハーディングの指揮にかかると、聞き慣れた作品でも、一度ばらばらにして再構築したと思わせる新鮮な響きが聴ける(今回はそこまでではなかったが)。新日本フィルの定演では、ベルリオーズ幻想交響曲を聴いたときはほんとうに驚いた(2009.3)。
だが、ハーディングといえば、なんといっても昨年3.11のコンサートだ。といっても、サブスクライバーとしてチケットは持っていたのだが、錦糸町へ行くことは叶わなかった。当日の演奏を取りあげたNHKのドキュメンタリー番組「3月11日のマーラー」(2012.3.10)によれば、集まった聴衆は105名だったとか。その後、NHK Wolrdで放映した英語版「Performing Mahler on March 11」もネットで見たが(5.12)、危機的な状況における音楽(芸術文化)の役割についていろいろと考えさせられた。このプログラムを欧米やアジア各国でも視聴可能にしたことは、たいへん意義深い。
あの日から三ヶ月後、ハーディングは#478定演でブルックナー交響曲第8番 ハ短調1880年稿、ノーヴァク版)を振った(2011.6.17)。素晴らしい演奏。壮大な作品のイメージとは裏腹に、奏者たち全員が一人ひとり室内楽のように互いに耳を澄まして聴き合い、きめ細かな音楽を創っていく。室内楽に比したからといって、ダイナミズムが欠落していたわけではけっしてない。大きな音は鳴っているのだが、音楽そのものが深く呼吸しており、そこに深い祈りを感じずにはいられなかった。ブルックナーならではの、大伽藍のような音の響きが消えていく、あの美しさを体験することが出来た。ホルンのトップ(井出詩朗)がフランス風のやわらかな響きで出色。音を出すことのない指揮者ハーディングは、音楽に生命と祈りを吹き込むべく最大限の奉仕をしているように思われた。【追記 終演後、団員たちと共に燕尾服のまま募金箱を持ってホワイエに立っている姿が印象的だった。】