ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』演劇集団 円 森新太郎演出/昨年の『ゴドー』と比べると・・・

翻訳:千田是也/演出:森新太郎
今日シアタートラムでブレヒトの『ガリレイの生涯』を観た(7月7日)。円の公演はほんとうに久し振り。80年代には安西徹雄訳・演出のシェイクスピア渡辺守章訳・演出のラシーヌ中村雄二郎企画のチェーホフや別役作品等々、よく見たものだ。
数十年ぶりに見ると、台詞回しに〝新劇弁〟とでも言いたくなるような不自然さを感じる役者が散見された。そこには、感情を塗り込めず言葉に身を任せたときに生じるふっくら感があまりない。タイトルロールの吉見一豊はよいと思う。だが、総じて役者たちはブレヒトの意図を理解して演じているのか。
こちらのコンディションが十全でなかったせいもあり、とにかく眠かった。本作のように長丁場で多量の台詞を聴かねばならぬ場合、よほど台詞回しがナチュラルでないと頭に入ってこない。もっとも、ブレヒトは〝悪い俳優〟の方がよい俳優より「教育的効果」はすぐれている(それだけで異化効果がある)と考えていたが。後半、大道歌手の場面で舞台奧に内外の原発反対デモを思わせる映像が次々に映し出された。科学と権力の問題。たしかにブレヒトは亡命先のアメリカで日本への原爆投下を知り、本作の初稿に手を入れたようだ。だが、今日の舞台を見て、そうしたアクチュアリティを感じたひとがどれほど居ただろう。
森新太郎の演出といえば、震災直後の昨年4月に上演した『ゴドーを待ちながら』(新国立小劇場)は人間の条件について考えさせる見応えのある舞台だった。年輪を感じさせる役者のキャスティングにこだわったそうで、橋爪功(ウラジミール)、石倉三郎エストラゴン)、山野史人(ポッゾ)、石井愃一(ラッキー)、柄本時生(少年)、みなじつに達者。森の演出は、主従の関係で、前者が後者を支配しているというより、むしろ後者が前者を、つまりエストラゴンやラッキーの方が、ウラジミールやポッゾを支えているのではないかと気づかせた。二組の主従関係を演じた役者たちはドタバタやさり気ない演技に互いへの愛情を滲ませ、支え合うことの〝滋味〟を震災直後に演劇化した意義は大きい。
この新国立劇場の公演と比べると、キャスティングや稽古の日数等、条件がどのように違うのか分からないが、劇団演出のむずかしさについて憶測したくなる舞台だった。