新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』 成長した小野/ラインの川村/誰にも似ていない米沢/対話力の菅野

新国立劇場バレエ団の『白鳥の湖』を全4キャストで観た。

初日の5月5日(土)はザハロワとウバーロフに代わり、中国中央バレエ団からワン・チーミンとリー・チュンがゲスト出演。
ジークフリート役のチュンは、国を代表しての出演を意識してか緊張が感じられた。それだけ責任感が強く真面目ということだろう。踊りも演技も実直かつ誠実。三幕のヴァリエーションでは難度を下げた踊りも見られたが、終始、王子としての気品を失わないジークフリートだった。三幕幕切れで走り去る直前、オデットへの裏切りを美しいピルエットで嘆いてみせた。とても新鮮。終始、内側からドラマを立ち上げる優れた演技だった。
オデット/オディールのチーミンは二幕の登場から自信が漲っていた。「場所はどこでも自分の踊りを踊りきる」といわんばかりの全方位的なあり方で、画家がデッサンするように自在に踊っていく。それでいて身体の隅々にまで表情がある。ジークフリートとの出会いばな、彼が持つ弓をピンポイントで咎める仕草には驚いた。オディールの踊りも鮮やかで、グランフェッテでは前半のダブルに後半は片手を挙げて廻り、雑伎の国の高い身体能力を見せつけた。が、どちらかといえばオデットの方が印象的。いずれにせよ、日本のバレリーナとは公演回数の違いを感じさせる、プロの踊りを見せた。


5月6日(日)小野絢子/福岡雄大
小野の白鳥は成長していた。ベテランの山本隆之が支えた初役の前回(2010年1月)は、正直、ヒナ鳥にしか見えなかった。それが今回、まだ若鳥ながら自らの意志で懸命に息づいている。昨日はくすんでいたヴァイオリン・ソロが少し輝いて聞こえたほどだ。折り目正しい丁寧な踊りはチーミンの「全方位的な動き」に比べ、やや丁寧すぎるきらいもある。個性というより、やはり公演回数の違いが大きいだろう。オディールも、少し軽めだが悪くない。フェッテはバクラン指揮の音楽が余りに速く肝を潰したが、見事に踊りきった(特にフィニッシュの「取り繕い方」はりっぱだ)。カーテンコールではカンパニーをしっかりと仕切り、看板バレリーナとしての自覚を示した。ビントレー芸術監督(2010年9月〜)が見守るなか、小野は着実に育っている。彼がバレエ団に振り付けた『アラジン』(2008年11月)は、個々のダンサーの個性を存分に活かした振付で、ダンサーたちへの深い愛情を感じた覚えがある。この日ビントレーは監督補大原永子の隣に居たが、小野の白鳥をどう思ったのか。
福岡は二幕ではオデットのサポートが大半を占めるとはいえ、ほとんどかすんでいた。三幕のヴァリエーションではよく踊ったわりにさほど喝采が来なかった。〝病み上がり〟のせいかも知れない。いずれにせよ、スポーティな彼には、古典では、王子としてもっと(精神的に)重みのある、端正でノーブルなあり方を望みたい。
厚地康雄は、首の動きまできりりと鋭いロートバルト。ジャンプにも切れ味がある。役には少しノーブルすぎるかも知れないが、きめ細かな小野と合っていた。
米沢唯のルースカヤは別格だった。その一挙手一投足に居合わせた者すべてが注視してしまう磁力を持っている。稽古の成果をなぞるのとは真逆の、「いまここでその場を生きる」存在のあり方。もちろん高い技術があっての話だが、それだけではない。どうしても『ことばが劈(ひら)かれるとき』の著者のDNAを感じてしまう。
スペインの踊りのトレウバエフはひとり別次元の踊りで、つい頬が緩んでしまう。スペインだけではもったいない。
西川貴子は、王妃としての気品と威厳を保ちつつ、慈愛も滲ませる見事な人物造形で、舞台を引き締めた。彼女が初日を務めるべきだ。家庭教師は相変わらず冴えない演技。イリインが懐かしい。これまで新国立バレエ団は踊らない立役を軽視する嫌いがあり、私はいつも不満だった。いくらダンサーがよく踊っても、立ち役の演技が生きていないと、ドラマが立体化しない。観客も踊りばかりでなく、立ち役の名演技や存在感を評価するようにならないかぎり好い舞台は生まれないだろう。

プロローグは、王女とロートバルトのみの登場に変更された。従来は、王女と付き人たちが不穏な気配を感じたのち、あろうことか王女をひとり残して後者が立ち去る演出だったが、その不自然さは解消された。だが、四幕幕切れの不可解さは相変わらずだ。何をしているのか分からない動きが多すぎる。たとえば、オデットとジークフリートが遣り取りしたあと、なぜロートバルトは後方の湖へ移動し、沈んでいくのか。二人の深い愛が悪を倒すと言いたいのだろうが、間が抜けた動きにしか見えない。これではダンサーが気の毒だ。米沢のルースカヤは見事だったが、そもそもこの振付の効果にも疑問符がつく。


5月12日(土)川村真樹/貝川鐵夫
川村真樹については、その本格的なラインの美しさに私はつねづね魅せられてきた。アラベスクするだけで、ヨーロッパのバレエ文化の伝統が照射される。こんな日本人バレリーナはざらには居ない。今回、二幕のグラン・アダージョで、白鳥のフォルムを見事に具現したオデットが体格の好いジークフリートと対話しているところへ、後方からこれまた長身の厚地扮するロートバルトが颯爽と現れたとき、思わず胸が躍った。とてもゴージャスな三人。が、これが頂点だった。高まった期待は次第にしぼみ、物足りなさが募っていく。このバレリーナには内から外へ放出するエネルギーが足りない。あと数センチ、否、数ミリでも手足を伸ばそうとするだけで、まったく別次元の踊りになるはずなのに。いつもそう思わされる。三幕、オディールのヴァリエーションでは、ピルエットで少し振られたようによろけたが、あれぐらい川村の技術をもってすればなんでもないはず。ジークフリートを拒絶する仕草も弱いし、退場前の花を投げつける動作も思い切りが足りない。カーテンコールでも、舞台の真ん中を担う意志が・・・。
だが、考えてみれば、これは指導(教育)の問題でもある。前監督体制の起用法にはいつも疑問符がついた。そもそも、前回の公演でザハロワの代役を厚木三杏と分担したとき、川村はオデット/オディールにキャスティングすらされていなかったのだ(厚木の他は、小野、さいとう美帆)。川村の新国立での白鳥デビューは2008年6月で、相手は中村誠だったはず(このときザハロワ/ウヴァーロフが3回、寺島ひろみ/山本隆之、厚木三杏/逸見智彦、真忠久美子/富川祐樹がそれぞれ1回)。つまり、彼女にとって今回はやっと三回目の白鳥だったのである。もっと場数を踏ませておけば、今頃は・・・。中国人ペアの踊りを見るにつけ、「失われた十年」が恨めしい。


5月13日(日)米沢唯/菅野英男
初めて見るような白鳥。細分化された緻密さでオデットを踊る。川村のようにバレエの伝統を想起させることはない。たぶん米沢の白鳥は誰にも似ていないのではないか。日本人の身体による究極のバレエは、あるいは酒井はなでなく、米沢唯によって実現されるのかも知れない。その意味で、酒井と比べたくなるのだが、もちろん両者はまったく違う。米沢の踊りには熱くなるような「感動」とは別種の、眼を見張るような驚きがある。妙な言い方だが、米沢の踊りには身体が感じられない。あるのは精神のみだ。いわば精神が身体に偏在しているような感覚。それに、踊りを見ていると、あまり音楽が聞こえない。ただし、あとで、彼女が踊ったシークエンスの音楽がはっきり蘇ってくる。じつに不思議な体験。
二幕での二人の濃密な対話の後、ロートバルトが現れ、ジークフリートに別れを惜しみ手を差し伸べながら上手へ移動するオデット。そのとき、オデット=米沢はジークフリート=菅野に切ない表情でなにかを呪文のように呟いていた(左バルコニーからは唇の動きがよく見えた)。「私のことを忘れないで」とでもいうように。囚われの身であることを感じさせるオデットを見たのは初めてだ。
三幕のオディールはグランフェッテの立ち位置が他のダンサーよりずいぶん前目。トリプルを入れながら回転するのだが、豪快さとは無縁のあり方。ヴァリエーションを終えて下手から去るとき、不敵な表情を客席に向けた。また、まんまと欺したジークフリートから花束を受けとる際、右手で彼の頬をなでる仕草は、まるで年上の女がうぶな男を手玉にとるような妖しさだ。オディールがこんな仕草をしているとは知らなかった。米沢唯の舞台からしばらく眼が離せない。(彼女がマノンを踊らないのは信じがたいことだ。あのキャスティングはたぶん前体制からの「負の遺産」だと思われるので仕方ないが。いまからでも替えられるものなら替えて欲しい。)
菅野英男は期待以上の王子だった。彼は舞台で対話できる。『パゴダの王子』で米沢と菅野を組ませた理由がこの公演で腑に落ちた。ビントレーの慧眼に脱帽。米沢のように舞台で細かく気を発してくるダンサーには、それを正面からきちんと受けとめ、返せる菅野がうってつけ。三幕の花嫁候補との踊りで、オデットの面影が忘れられないジークフリート。その浮かない表情の息子を心配そうに見守る王妃。ここでも、細やかな親子の対話が成立していた(この日も西川貴子は、立ち居振る舞い、マイム等、すべてが王妃/母としての品格をそなえており、たいへん美しかった)。また、その後のジークフリートのヴァリエーションは、オデットに再会した喜びが王子としての気品を失うことなく表出される端正な踊りだった。

東京フィルハーモニー交響楽団は、今回もオーボエとホルン(そしてある程度トランペット)に問題があった。特にオーボエは音色がしばしば歪み、この演目では致命的である。ホルンの場合、今回観た4公演とも同じ箇所で音を外す奏者がいた。バクランの指揮は乗ってくると爆発させる力があるが、オケの質を高度に保つトレーナーの要素がたいへん弱く、音楽作りは総じて荒削りである。劇場専属のオケが誕生するのはいつのことだろう。