ラ・フォル・ジュルネ 疲弊のなかのコーラス(カペラ・サンクトペテルブルク)

一年ぶりのラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン。テーマは「Le Sacre Russe——サクル・リュス——」。2005年の「ベートーヴェンと仲間たち」以来、毎年足を運んできた。低料金で最高の音楽を提供し、新たなクラシックファンを開拓したいというルネ・マルタンのコンセプトはよく理解できるし、それを実現する手腕も高く評価できる。じっさい素晴らしい音楽祭を日本に根付かせようと努力するマルタンには、感謝の念を禁じ得ない。けれども、とても音楽を聴きに来たとは思えない「聴衆」が少なくないホールで、そのふるまいに眉をひそめるアーティストたちをしばしば見るにつけ、もう行くのは止そうかと思ってしまう。やがて半年以上が過ぎ、チケットの発売日が近づくと、そんな思いを忘却しつい購入してしまうのだ。ただ今回は、演劇やバレエ公演と重なったこともあり、一日しかも三公演のみ(5月4日)。
会場は人であふれていたが、かつての活気は感じられない。昨年は震災と原発事故の影響でアーティストが殆ど入れ替わり、プログラムも大幅に変更された。それでも、今回のような「疲弊感」はなかったように思う。震災の二ヶ月後では、本当にこの国で何が起きたのかまだよくわからなかったのではないか。今回、会場から感じる「暗さ」は、災厄がわれわれの身体組織に深く入りこんだことの表れかも知れない。国際フォーラムはレストラン等の店が随分入れ替わり、雰囲気が少し変わっていた。
公演は三公演とも当たりだった。特にカペラ・サンクトペテルブルクを聴けたのは僥倖というべきか(ホールC=ドストエフスキー)。ロシアの大自然に育まれたと思わせる野性的な力強い合唱。ヨーロッパの、洗練を追求するトロミ感ある古楽コーラスとは真逆。トロミどころかざらったとした荒々しさがあるのだが、地の底まで届きそうな低音をはじめ、団員ひとりひとりが際立つ個性の持ち主。その彼らが、司祭のような、魔術師のようなヴラディスラフ・チェルヌチェンコの指揮に声を合わせると、底知れない奥行きを感じさせるコーラスとなり、聴く者の身体に響いてくる。前半は二十世紀ロシア(ソ連)の作曲家による作品。後半はロシア民謡。どの作品もソロを立てて合唱と掛け合うのだが、ソプラノ、テナー、バス等みなうまく、個性豊かで味がある。特に「12人の盗賊」(V.ブーリン編曲)でバスがソロを歌いはじめるや、思わず身体が弛み笑みがこぼれた。なんという声、なんという低音! 美声とはとてもいえないが、強く惹きつけられた。聴衆の喝采もじつに熱かった。アンコールに三曲歌ったが、最初のソプラノは愛嬌の好いとても表情豊かな歌声。最後の、各パートが次々にソロを繰り出す曲は、『カルミナ・ブラーナ』を想起させた。初来日らしいが、また聴きたい。
チャイコフスキー組曲第4番『モーツァルティアーナ』を演奏したシンフォニア・ヴァルソヴィアは、フェスティヴァルの常連だが、あらためてその質の高さに感服した(ホールC)。「Ave Verum corpus」をベースにした「プリギエーラ」(祈り)も印象深いが、「テーマとヴァリエーション」で、コンマスによるヴァイオリンソロの香るような気品と高い音楽性に、やられてしまった。ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番は、フランスの若手アダム・ラルームのピアノ。音色が深く、テクニックも堅実で好感の持てるピアニストだが、音楽性(音量ではない)がオケの貫禄に埋没しがち。もっと自己主張してもよい。指揮のジャン=ジャック・カントロフは両曲ともしっかりとした音楽づくり。
フランス人ロマン・ルルーのトランペットも聴きごたえがあった(ホールD7=パステルナーク)。さすがはモーリス・アンドレを生んだ国だ。
雨のなか丸ビルまで足を運びチャイコフスキーとロシア音楽展」を観た。特に、薄井憲二氏のバレエ・コレクションは興味深い。プティパのサイン入りポートレートや初演プログラム、台本など、貴重なものばかりだった。よく入手できたものだ。
来年はフランスとスペインの音楽がテーマらしいが、さてどうするか。