野田秀樹『The Bee』 人間の非合理性と「ハミングコーラス」

野田作品は『パンドラの鐘』(1999)『贋作・桜の森の満開の下』(2001)『透明人間の蒸気』(2004)ぐらいしか観ていない。そこに才能の豊かさは感じたが、深刻な主題をちらつかせながらコトバ遊びではぐらかす手法には違和感があった。ヴェルディの『マクベス』を演出した舞台(2004)もあまり感心せず。それが、シアタートラムで『The Diver』に出会い、打ちのめされた(2008.9.27)。
『The Diver』世田谷パブリックシアターが企画したシリーズ「現代能楽集」の一つで、野田が書き下ろした英語作品。能の「海人(あま)」や『源氏物語』の題材が現代の女性の犯罪と重ねられる。四人(ハンター、グリン・プリチャード、ハリー・ゴストロワ、野田)のアンサンブルにより、シンプルな舞台であざやかな場面が次々に展開される。子供のごっこ遊びのように。が、そこには一定の(能や歌舞伎のような)様式性が見られる。ラストのハンター(母)と野田(息子)の赤いヒモを使ったデュエットには胸が熱くなった。驚嘆すべきはキャサリン・ハンターの自在さだ。途轍もない身体能力と集中力の持ち主。他の二人の役者も献身的な演技。野田も相変わらず。作品の質はかなり上がっていると感じた。野田同様、自在に動ける役者を得たからだろう。それがイギリス人俳優だった。彼らのテクニックを見ると、日本の演劇教育の貧困を思い知らされる。ともかく作品・演技とも質の高さに圧倒された(日本語版は未見)。

あれから三年半後、『The Bee』二つのヴァージョンを水天宮ピット大スタジオで観た(英語版の初演は2006年、日本語版は2007年だが共に未見)。二度、しかも異なるキャスト/セットで見ると、そこから得られたものも、当然、別様だった。
共同脚本:野田秀樹/コリン・ティーバン、舞台美術・衣装デザイン:ミリヤム・ブーター(日本語版は堀尾幸雄)、照明デザイン:リック・フィッシャー。
まずは英語版。『The Diver』同様ごっこ遊びがベース。役者の身体表現であらゆる状況をつくってしまう。プロットは筒井康隆の原作「毟りあい」(1975)にかなり忠実。
脱獄犯に妻子を人質に取られたサラリーマンの井戸(キャサリン・ハンター)は、マスコミや警察に五月蠅くたかられる。いわゆる二次被害だが、その様子が四人の役者によって実にスピーディに提示される。巧みに用いられた伸縮自在のゴム紐が、マイクのコードや封鎖テープに見えるから不思議だ。やがて井戸は報復に、犯人小古呂(おごろ)の妻子を人質に取り、立て籠もる。報復の対象はたぶん犯人だけではない。マスコミや警察など世間一般も含むだろう。その分、エスカレートする犯罪。それが日常化していく後半が本作の肝である。
まず井戸は小古呂の息子(グリン・プリチャード)の指(鉛筆)を折る。息子の母(小古呂の妻=野田)がボール紙で封筒をつくる(我が子の指を夫に届ける封筒を母が率先して用意する行為のおかしさと、その行為の反復を当然視している自分=観客への妙な自己感触)。井戸はそこに折られた指を入れ、トイレの窓へ。それを犯人へ届けるべく刑事(マルチェロ・マーニ)が受けとる。夜になり男は女(小古呂の妻)を犯し、眠る。夜が明け、男は起きて洗面し、女は台所で朝食を作る(まな板で包丁を使う“のどかな”音)。三人で朝食をとるさなか、ドアの郵便受けに小古呂からの報復とおぼしき封筒が落とされる。再度、男は子の指を切り落とし、母は紙で封筒をつくり……。
こうして報復行為は徐々にエスカレートしながら反復されるが、野田は、暴力そのものより、その行為が日常化するプロセスに力点を置く。「暴力の連鎖」の渦中にある三人はまるで普通の家族のようだ。さらに、このシークエンスで『マダム・バタフライ』の「ハミングコーラス」が流される。残忍な行為の日常化を描く場面が、プッチーニの美しい音楽とスローモーション化された質の高い動きにより、宗教的といいたいほどの神聖さを帯びる。
「被害者の男が、報復に、加害者の家族に暴力をふるう場面」など、誰も見たくない。野田は、それをリアルに舞台化しなかった。女優に被害者の男を、自身は加害者の妻を、大人の俳優に子供を、それぞれ演じさせる。舞台が「これは虚構である」といっている。生々しさを括弧に入れた、とても美しいシークエンスだった。「ハミングコーラス」とスロー化された反復行為がしばらく頭に残り、「暴力と美」についてあれこれ考えさせられた。
四人の役者がすべてをこなす。ワールドツアー最終地での彼らは、必ずしも本調子ではなかったかも知れない。一列目で見たため、主役二人の年齢を少し感じた。しかし、質の高さは別格( 2月28日)。


二ヶ月後『The Bee』日本語版を観た。
前半は英語版の方がスピード感、切れ味で優ったか。だが後半は、母語での芝居だけに、身体の動きと台詞(の意味)が同時にストンと入ってくる。さらに「暴力の連鎖」のシーンで、井戸(野田秀樹)が子(近藤良平)の指を初めて折るとき、宮沢りえは母の嘆きをリアルに生きた。「封筒だ! 封筒が要る!」と叫ぶ井戸に、おろおろしながら紙を破って渡す小古呂の妻。それが、ある時点から、井戸の要求を察し、先取りし、かいがいしく仕えはじめるのだ(英語版の野田=妻も同じ動きをしたが、コミカルに見えた)。一方、暴力を重ねる加害者(元は被害者だが)の内から苦悩の表情が滲み出る。そんな井戸に、暴力の被害者たる小古呂の妻が、深い同情を抱く。ふたりの交感。その瞬間が今回のハイライトだった。客席は、小古呂の妻をとおして井戸に感情同化し、報復を重ねていく井戸への「切ない」気持ちを共有したように思う。『蝶々夫人』の「ハミングコーラス」は、ピンカートンの帰りを待つ蝶々さんを〝慰藉する〟ように歌われる。叶わぬ望みを信じようとする彼女をいたわるように。被害者(井戸)が加害者の家族(小古呂の妻と息子)に暴力を加えることで加害者となり、その加害者(井戸)を被害者となった加害者の家族が同情しながらもその加害によって死んでいく。言葉にするときわめて陰惨かつ理不尽な話だが、「ハミングコーラス」の挿入は、こうした非合理な営みを為す人間を、その闇を、まるごと〝いたわる〟ようわれわれに促した。
英語版では、台詞の理解に時間差が出る分、両者を同時に感受することが難しい。いま思えば、ダンスのように受けとっていたのかも知れない。英語版で「ハミングコーラス」が流れる反復のシークエンスを殊更に「美しい」と感じた理由だろう。だが日本語版では、美しいという意識より、危機的な状況下の人間が意外な心理の機微を見せるありように強く心を動かされた。
女優が井戸に扮し、男優が小古呂の妻を演じる英語版では、彼らの内面を想像力で補うよう強いられる。一方、主役二人が同性の役を演じる日本語版では、小古呂の妻に扮した宮沢りえが生な女の美しさと色気を存分に発揮し、よりストレートだった。
英語版のセットはつるつるしたアクリル材を用いて70年代(?)の時代感を出していたが、日本語版は全面に紙を使ったラディカルな舞台だった。象徴性の高い紙の舞台にリアルなキャスティングをし、より現実的なアクリル舞台では性を転換したキャストで異化効果を狙ったのかも知れない。ラストは紙ヴァージョンの方が過激で気に入った。(4月27日)