舞台の愉悦 宮沢章夫と伊藤キム

昨秋(2011.10.14)F/T「トータル・リビング1986-2011」(宮沢章夫作・演出)をにしすがも創造舎で観た。宮沢の作品を観たのはこれが初めて。
ビルの屋上がセット。ビデオカメラが予め三台置いてある。色は白が基調。衣裳も綿素材のきなりのものが多く、みな白っぽいバスケットシューズを履いている。役者は十名のうち女性が三名。三つの部分に分かれ、間に十分ずつ休憩が入った。やり方は岡田利規チェルフィッチュそっくり。どちらが真似しているのかは定かでないが。変な動きを入れながら妙な調子で台詞を吐く部分と普通の台詞回しが混在している。役者がカメラを持って別の役者(たち)を撮ったり、モノを撮ったりする。それが、正面奥の大きな画面に映し出される。
役はいちおう映像を教える先生と生徒たちという設定。おそらく宮沢の経験がベースにある。春にワークショップで「街の声を集める」課題をやったと本人が書いている。それが、舞台上で若干アレンジされて再現される。一部と二部は、私にとってはつまらない遣り取りの断片が、わざとリアリズムにならないような台詞回しで行われ、耐え難かった。
ただ、最後に、上から箱が降りてきて、そのなかから、午後2時46分で止まった眼さまし時計やピアニカ等、さまざまなモノを役者たちが取り出し、それを床に置いていく。よく見るとモノの下に葉書大の紙切れが敷いてあり、役者たちがそれを一つずつ拾い上げ、読み上げていく。「3月11日何時何分、何々線も止まっているの?」「3月10日何時何分、・・・」。おそらく実際「あの日」の前後に役者たちが街で採取した言葉の断片だろう。その間、男性が聖書の言葉を朗読するのだ。床に置かれたモノは必ずしも被災地の映像に見られた残骸とは違うが、そのモノたちは、死んだ人々の遺品に見えた。レクイエムの儀式なのだろう。
それにしても、作品の大半を占める「表現」は私には少しも「愉悦」を感じることのできないものだった。作家の高橋源一郎が来ていて、ポストトークをやったらしい。自分はすぐに帰った。あとでHPのツイッターを見たら、高橋が「二回泣いた」と言ったとか。


二日後、フェスティバル・トーキョーのイベント『伊藤キム、演説会』池袋西口公演で観た(2011.10.16)。面白かった。
スキンヘッドに隻眼のキムが黒のスーツに身を包み、「伊藤キム」と書かれた大きなタスキを掛けて左手から登場。25分ほど演説をした。といっても、言葉は聞き取れない。掌や拳で口を塞いで演説するのだ。何を言っているのか分からない。ただし、最後のほうで、口を大きく開けたまま、アー、アー言うのだが、このときは部分的に言葉が聞き取れる。消費税5%とか10%とか。するとみんな好く笑う。
先日亡くなった吉本隆明の言葉を借りれば、「指示表出性」を切り落とし、「自己表出性」だけで、つまり身体性を高め存在感を浮き上がらせようとする。ダンサーとして、振付家としてのキムの覚悟と自負を強く感じるパフォーマンスだった。
といっても、難解さなど微塵もない。優れたエンターテインメントでもあった。政治家の演説を言葉を封じて模倣する。その愉悦。異形の者の存在感と洗練。〝えんぴつの画家〟木下晋が描く元ハンセン病患者の桜井哲夫氏を想起。なぜか金曜日に観た宮沢章夫の「トータル・リビング1986-2011」を猛烈にこき下ろしたくなった。ここには「美」(つまりインテグリティ)があるが、あそこにはそれがいっさいなかった。少なくとも私にとって。