脳のマッサージ 岩松了の舞台

プロの役者による完璧な舞台もよいが、素人やセミプロなどが交じった公演は「隙間」がある分、あれこれ考える自由があり、それなりに楽しめることも少なくない。

昨年12月に観たさいたまゴールド・シアター『ルート99』(作・岩松了/演出・蜷川幸雄もそうした舞台のひとつだった。
平均年齢71才、最高齢84才の役者たちは時おり台詞が止まったり、かぶったり、妙な沈黙があったりと、いろいろ問題はあった(ネクストシアターの役者も3名出演)。客の入りも6割程度。ところが、病み上がりで観たせいもあるのか、とても楽しく充実した時間を過ごした。
役者は、演劇はどうあるべきか、いろいろと考えさせられたのだ。
たとえば、
——技術はもちろん大切だが、もっと大切なものがあるのではないか。
——台詞のみならず役者の身体性が語る「ことば」を聴き取ることがいかに面白いか。
——音楽を聴くように舞台を観れば、観る/聴く者の身体をいかに共振させるか。
——観客を幸せにする舞台の条件は、プロの完璧な演技であるとは必ずしもいえないのではないか等々。

岩松了といえば、昨年2月、制作に関わった知人に招待され『国民傘−避けえぬ戦争をめぐる3つの物語』(岩松了作・演出/ザ・スズナリを観たのだが、たいへん刺激的な作品で、脳をマッサージされたような演劇体験だった。
スズナリは、八十年代初頭に石橋蓮司緑魔子がやっていた劇団第七病棟の芝居を観て以来、じつに約三十年振り。とても懐かしかった。
その時の感想を以下に掲げる。

「戦争」をテーマとする三つのプロットが入れ子状に重なり、バッハの無伴奏チェロ組曲等の生演奏で交点が接合される。母娘の物語と印刷業を営む家族等の物語に軍服を着た兵隊たちのプロットを横断的に交わらせ、前者が表象する日常生活に「戦争の芽」を化学反応的に現出させようとの試み。
ただ、プロットの交わりが総合をもたらすのみならず、その虚構性の審級までもが攪乱されるため観客は眩暈を起こし、作品の意図や物語間の整合性などより、ひたすら岩松的対話の魅力の現在に身を任せてしまうのではないか。じっさい役者間で交わされる対話は内容的にも演劇(遂行)的にも極めて強度が高く、観る者の感覚と思考の枠組みを揺さぶる効果は絶大だった。

12名の出演者はすべてオーディションで選ばれたそうだが、役者に対する趣味が好い(というか、私と同じテイスト)。足立理石住昭彦佐藤銀平、渋川清彦、太賀、三浦俊輔、三浦誠己、三上真史浅野かや、長田奈麻、片山瞳、早織。
荒井結子のチェロ演奏はとても質が高く、スズナリの空間とは面白い取り合わせ(バッハとグリーグの組み合わせも)。

ちなみに、岩松は今回の作品が『「三人姉妹」を追放されしトゥーゼンバフの物語』(2002)に近いと発言しているが、私はその『「三人姉妹」を・・・』を新国立劇場で観ている。ディテールは覚えていないが、凡人の予想をはるかに超える奇想天外さと、作品世界を終えることが出来ず突然終演になる唐突さは『国民傘』と共通だった(私としては今回の方が断然おもしろかった)。

近年、井上ひさしの芝居を観る機会が少なからずあるのだが、岩松は、いわば全身の皮膚のすべてが世界に接し、その細胞すべてが生きている感じ。ここからみると、井上の場合、限られた部位でのみ世界と触れているか、あるいは、所々、壊死しているような、そんな気さえした。
数日前に観たチェルフィッチュの『ゾウガメのソニックライフ』などは、そもそも世界と直接触れてさえいないのかも知れない(その偏頗性を演劇的に肯定し、美に変換しようと藻掻いているのだろうが)。岩松了は、現代演劇の「健康度」の試金石である。