[オペラ]新国立劇場オペラ 新制作《アルマゲドンの夢》2020(書きかけメモ)

昨日(2022.2.25)《アルマゲドンの夢》の無料配信を見た(配信は2月28日まで)。これを機に書きかけのメモを完成させるつもりだったが、ちょっと無理そう。続きは再演時に改めてトライしたい。とりあえずそのままアップする。

初日、3日目、楽日を観た(11月15日 ,21日 ,23日 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

事前にH. G. ウェルズの原作短篇「世界最終戦争(ハルマゲドン)の夢」A Dream of Armageddon (1901) を読む。面白い!  まずはこの作品を選んだ藤倉大氏に感謝。もちろん彼に委嘱した大野和士氏にも。

まず原作を文学として味わった後、オペラの初日を観た。舞台は初めから終わりまで、原作を読んだ感触とは驚くほど異なっていた。

台本:ハリー・ロス(H. G. ウェルズの同名小説による)

作曲:藤倉 大

指揮:大野和士

演出:リディア・シュタイアー

美術:バルバラ・エーネス

衣裳:ウルズラ・クドルナ

照明:オラフ・フレーゼ

映像:クリストファー・コンデク

ドラマトゥルク:マウリス・レンハルト

[キャスト]

クーパー・ヒードン:ピーター・タンジッツ

フォートナム・ロスコー/ジョンソン・イーヴシャム:セス・カリコ

ベラ・ロッジア:ジェシカ・アゾーディ

インスペクター:加納悦子

歌手/冷笑者:望月哲也

兵士(ボーイソプラノ ソロ):原田倫太郎(11/15)長峯佑典(11/18, 21)関根佳都(11/23)

合唱:新国立劇場合唱団 

管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団

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舞台は、とにかくヴィジュアル情報が多すぎて、ごちゃごちゃ感が半端ではない。そこに分け入ろうとした分、肝心の音楽がじっくり聴けなかった。少なくとも初日は。それでも、無意味と感じる響きは皆無で、いわゆる現代音楽っぽいスノッブな印象もない。演出のシュタイアーが言うとおりだ。いわく、藤倉の「音楽には正直さがあり、人々の感情に語りかける勇気がある」。他方、多くの同時代作曲家にとって「聴衆の心に語りかけることは必ずしも優先事項ではない」のだと。初日では、奇妙な感じのワルツや弦の深い響き、気持ち悪い「柳の歌」などが印象に残った。合唱のア・カペラで始まり、ラストがボーイソプラノのレクイエムで終わる。これもいいと思った。が、同時にいろいろ疑問も湧いた。

原作では、夢のなかのヒードンは社会的責任と個人的な幸福追求との間で葛藤し、後者を自己欺瞞的に固執したため破滅に至る。この葛藤が現実のクーパーにまで及んでいる点は興味深い。一方オペラでは、この葛藤がヒードン・クーパーとベラ・ロッジアの男女に分割され、ヒードンには名前が示す快楽(ギリシャhēdonē = pleasure)を、ベラには社会的コミットメントを体現させた。だが、初日の舞台からは、二人の葛藤・対立が印象に残らなかった。

電車内から夢の世界への移行はまずまずか。ただ、場面転換後、鏡、カーテン、映像等を駆使して夢の世界を作り出すが、夢の感触はあまりない。合唱に不気味な白い仮面(マスク)を被せ(たぶん感染防止機能を兼用)個人性を消して暴徒化させ、カリスマ的指導者イーヴシャムの扇動で戦争へと駆り立てられていく。この演出はよいと思う。

 だが、演出に関わる最大の疑問は、クーパーとベラ(特に前者)の人物造形にある。クーパーは電車内では挙動不審の神経症まがいだし、夢の世界では変態気味のどうしようもない男で、ダンスホールの仮面舞踏会(?)でイヒヒ笑いを気味悪く連発する。これではタガの外れた狂人にしか見えない。

原作では、平凡な事務弁護士のクーパーは、夢のなかでは人々から信頼される国の指導者ヒードンだ。オペラでは、現実(列車内)のクーパーと夢の中のヒードンを〝クーパー・ヒードン〟として合体させた。となれば、現実の車内も夢の中も「平凡な男」(藤倉)のキャラに変化はないはずだ。が、実際の舞台では、前記の通り、いずれの位相でも「平凡」とはとてもいえない造形が施されていた。

そもそも、電車内の現実から夢の世界へ転換する最初の「愛の場面」(新婚生活)を、なぜあのように俗悪化したのか。鏡の部屋にピンクの回転ベッドとピンクのネグリジェ姿のベラ…。これでは〝ピンクサロン〟の風俗嬢にしか見えない。ウェルズの原作ではどうか。この女性を列車内のクーパーは次のように描写する。

「きれいな白い首筋」「そこにたれている小さな巻き毛や白い肩」「優美な身体」「ゆるやかで流れるよう」な「衣装」。その顔は「絵にかくこともできる」ほどリアルだが、それでも「夢の中の顔なのです。彼女はきれいでした。聖者の美しさのように、きびしくひややかで、おごそかなものではなく、光かがやくような美しさで、やさしいくちびるは微笑にほころび、おちついた灰色の目をしていました。動作はしとやかで、楽しく優美なものをすべてそなえているように思われました——」(阿部知二訳)

オペラの女性演出家は、男が夢に描く優美でロマンティックな女性像を解体したかったのか。そんな女は男の勝手な幻想にすぎず、現実にはどこにも存在しないと。理想化されたイメージの批判は理解できる。その根拠が、原作にも見出せるから。問題はそのやり方だが、この点はあとで触れよう。

車内で本を読んでいたフォートナムが、突然、乗客の首を折り、転換する夢の場面へと移っていく。やがて、クーパーとベラが風呂で泡を立てるシーンをほくそ笑みながら眺めたのち、奥へ姿を消す。……ダンスホールのシーン。奇妙な衣装を着けた人々。仮面舞踏会なのか。歌手が台の上で歌う。インスペクター、イーヴシャムの演説。……

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「世界最終戦争の夢」が出たのは1901年だが、夢を「無意識の欲望の成就」と見なすフロイトの『夢解釈』(1900)とほぼ同時期なのは興味深い。ウェルズがフロイトを読んだと言いたいわけではない(後に交流はあったようだが)。ウェルズの本作は〝願望充足としての夢〟の枠に収まりきらない。そこに彼の非凡さがある。この作家は、男の夢を、夢のロマンティックな象徴とも言えるあの恋人を、無残なまでに引き裂いていた。この短篇で最も驚かされたのはこの結末だった。原作を見てみよう。

ラグビー駅で客車に乗ってきた青白い男が、語り手の「私」に話しかける。「私」がフォートナム・ロスコーの『夢の状態』を読んでいたからだ(オペラではクーパーと電車に乗り合わせた「私」をこの著者名にしている)。男は連続夢、すなわち〝連ドラ〟のように夜ごと続いてゆく夢の話をする。その夢の世界で打ち砕かれ殺されたと。妻子持ちで53歳の事務弁護士クーパーは、列車がロンドンに到着するまで、「私」を相手に、この夢について語る。この趣向は『タイム・マシン』(1895)や「塀についたドア」(1906)「妖精の国のスケルマーズデイル君」(1903)にも見出せる。ウェルズお得意の構成らしい。

この男クーパーは夢の中ではヒードン(快楽)といい、北の国で信頼の厚い指導者だった。だが、陰謀や裏切りに満ちた「政治芝居」に嫌気がさし、地位も名誉も捨てて、相愛の若い女性とカプリ島に来ている。夢のなかで初めて目覚めたとき彼は海を見下ろすロッジア(開廊/涼み廊)のような所に居た(オペラでの女性の名はベラ・ロッジア)。島に造られた未来の〝遊楽都市 pleasure city〟には大きな朝食室や移動式通路まである。二人が豪華なダンスホールで踊っていると、北の国の使者が来て国の混乱ぶりを伝え、彼に助けを求める。ヒードンが去ったあと二番手の愚かなイーヴシャムが権力を握り、脅迫的に侵略を仄めかし、戦争の脅威が高まっていると。ヒードンには、彼を阻止できるのは自分だけだと分かっている。同時にそれが彼女との離別を意味することも。ゆえに、彼は使者の依頼を拒絶する。不安な表情を見せる恋人に、ヒードンは言う。自分はこの愛の生活を選んだ、イーヴシャムとかたをつけるのは自分ではない、どのみち戦争は起こらない、と。こうして彼は彼女を偽り、自分を偽る。これに対し恋人は「でも戦争が——」と繰り返し、愛の生活を犠牲にしてでも彼に戻るべきことを訴える。

ここで注目すべきは、控えめで優美なこの女性が、ヒードン自身の抑え込まれた良心(義務感)を担わされている点だ。オペラでは無名の彼女にベラ・ロッジアの名を与え、革命の闘志に改変したのは、この良心を舞台で明確に造形化したかったためだろう。ただ、その人物像が判然としなかった。

ヒードンは、彼女の不安を払拭するため、グロッタ・デル・ボヴェ・マリノで水浴し、戯れる(この洞窟での遊楽はフロイト的な解釈ができそうだ)。

彼女は泣きながら「あなたが送ってらっしゃるこの生活は『死』です。あの人たちのところへおもどりなさい。あなたの義務へおもどりなさい」と勧める。だが、彼は「どんなことがあっても、わたしは北へもどらない。わたしはもう道を選びました。わたしは愛を選んだのだから、世界は亡びなければならない。……あなたのために生きるのです!……もしあなたが死んでも……そのときは——私も死にます」。このように、何度も「まだ手遅れではない」と思いつつ愛の生活を続けた結果、戦争を食い止めるチャンスを逸する。

耳障りな軍歌が繰り返されるなか、二人の逃亡が始まる。人々はイーヴシャムのバッジをつけている。彼女がバッジをつけていないのを見とがめ、罵る女。まさに戦時の同調圧力だ。二人は結局は逃げ切れず、恋人は古代の遺跡近くで戦闘機(war things)の最新兵器により射殺される。ヒードンは彼女の死体をパエストゥム神殿へ運ぶが、そこで彼も、「未知の言語」をしゃべる「黄色い顔」の制服を着た「小さい」男たちの隊長に剣で刺殺される(小心のくせにすぐ威張るこの隊長は後の日本軍人像そのもの)。

クーパーがこう語る頃、「ユーストン」の駅名が聞こえる。列車はロンドンの街に入ったのだ。自分が刺し殺された後のありようを彼はこう語る。「暗黒が、洪水のような暗黒が口をあけてひろがり、すべてのものを飲み込んでしまったのです」。

オペラのラストで再び電車内に戻ったクーパーが、車内販売のワゴンを押す少年に怯えながらこの言葉を歌ったと思う。その直後に彼は床に倒れ、少年がレクイエムを歌い、アーメンで幕となる。

だが、原作のラストはこうだ。

語り手の「私」がそれでお終いだったのか尋ねると、ためらいながら彼は言う、「わたしは彼女のもとへ行くことができませんでした。彼女は神殿のむこう側にいたのですが——それにそのとき——」/「それで?」とわたしは問いつめた。「それで?」/「悪夢です」と彼は叫んだ。「たしかに悪夢です! なんということでしょう! 大きな鳥が争って引き裂いていたのです Great birds that fought and tore.」

それ以前に、彼女が死んだ後、クーパーは現実に目覚め、また夢を見ると、彼女は「きみのわるい死体」となっていた。腐敗していたのだ。ウェルズは、それだけでは慊らず、彼女の死体を大きな鳥に引き裂かせた。鳥葬の言葉が浮かぶ。それとも供犠なのか。パエストゥムには、古代ギリシャの女神ヘラを祀った神殿の遺跡がある。ヘラはゼウスの妻で既婚女性の守護神だ。そこで恋人の死体が鳥に食われたとは皮肉である。だが、そもそもクーパーは戦闘機の編隊を鳥に喩えていた(「カモメかミヤマガラスかそれに似た鳥の大群のように」)。すると、著者は、彼女が戦争の最新兵器に切り裂かれたと示唆したかったのか。

いずれにせよ、ウェルズは、クーパーが見た夢を、ロマンティックな夢の純化された女性像を、人間が作った「ばかげだ」「戦争の道具」で破壊した。ここで本作が「アルマゲドンの夢」と名付けられた意味を問わねばならない。『ヨハネの黙示論』を読んでみると ……

 

……プログラムに掲載の「演出家ノート」の翻訳で「フォートナム・ロスコーは、ウェルズの物語に最初に登場する人物です」とあるが、原文を見ると the first person(43頁)だから「…ウェルズの物語では一人称の人物です」の勘違いだと思われる(17頁)。

 

新国立劇場演劇「コツコツプロジェクト 第二期」3rd 試演会『夜の道づれ』2022

「こつこつプロジェクト -ディベロップメント- 第二期」3rd試演会の『夜の道づれ』初日を観た(2月17日 木曜 19:00/新国立小劇場)。席は『テーバイ』同様、最前列のさらに左寄り。やはり近すぎ。感想メモをだらだら記す。

作:三好十郎/演出:柳沼昭徳

御橋次郎:石橋徹郎/熊丸信吉:日髙啓介(理由は不明だが当初の発表から変更)→チョウ ヨンホ/洋服の男+警官2:林田航平/警官1+復員服の男/中年の農夫:峰 一作/若い女+戦争未亡人:滝沢花野

f:id:mousike:20220218200545j:plain敗戦後の夜更けに甲州街道を歩く男(石橋)。彼は別の見知らぬ男(チョウ)と道づれになり、道中いろんな人間と出くわしながら、ひたすら歩き、語っていく。

見る前は、二人が歩き続ける行為をどう舞台化するのか興味津々だった。回り舞台? 違う。開演時には、すでに御橋役の石橋が舞台中央で自然木のステッキを握ったまま大の字に横たわっていた。別の役者が舞台より低いシモテの袖で床をドンと叩くと、石橋はビクッと動き、続く音に呼応して体を動かし立ち上がる。やおら膝を高く上げ、音に(が)合わせて地面をドシドシ踏み始めたのだ。何もない空間のあっちへ行ったりこっちへ来たり…。カミテの袖からも何かを叩く音がする。まるで歌舞伎の「ツケ」のよう。黒衣が役者の足取りに合わせてツケ板を木で打ちつける、あれ。もしかして石橋の最初の大仰な足取りは「飛び六方」を模したのか。そこへ後から歩く道づれ男(チョウ)の駒下駄音が加わる。こうした動きや不規則な拍子に、初めは違和感を覚えた。が、次第にこの奇妙なリズムに巻き込まれ、気がつくと舞台にすっかり惹き込まれていた。

二人の歩行と〝浮世話〟のリズムは、警官(林田航平・峰一作)や復員服の男(林田)や半裸の女(滝沢花野)などと遭遇しながら、続いていく。二人の素性は警官の誰何で明らかに。ステッキ男は著述業(劇作家)の御橋次郎 45歳。終電過ぎまで(たぶん新宿で)酒を飲み、歩いて上祖師谷の自宅へ帰るところ(三好十郎の自宅は赤堤にあった)。道づれは会社員の熊丸信吉で、御橋より若い。彼は背広にネクタイを締め下駄履きでリュックを背負い、手に花を持つ。なんとも奇妙な出で立ちだが、行き先を問われても要領を得ない。いわくありげの彼は後半、御橋にポツポツ語り出す。…会社の集金で歩き周って帰宅し、疲れからうたた寝した。が、目覚めると、妙な気持ちに襲われる。それは悲しさや寂しさの感情ではない。物質のように「ズーンと、この、死が、すぐそこに来た」という。異変に気づいた隣室の妻(邦子)が部屋へ入って来る。

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邦子はわけがわからず、心配して毛布をはがそうとします。はがされまいと僕は毛布にしがみついていたんです。……今、これをどけて家内の顔を見たら、そのトタンに自分は家内を殺す。しめ殺すかなんか、とにかく、必ずやるにちがいないと思つた……思つたんじやない、知つた——というか、ハッキリ、わかつた。家内だけでなく、子供もです。そのほか、母親だとか、とにかくそこらに居る人間を、みんな、虫けらをひねりつぶすように。……わかりますか? わからんでしよう? ……僕にもわからん。今でもわかりません。しかし、そうだつた。それにちがいなかつたんです。……(かすかにニヤリとしたように見える)……恐ろしくて——その自分が恐ろしくて恐ろしくて、しかたがなかつたんです。……それで、とにかく、どうにもしようがないもんですから、毛布の下から家内に、熱が出たらしいから、すまんけど、大急ぎで氷を買つて来てくれといい、邦子はブツブツいつていましたけど、しかたがないもんで、氷を買いに出て行きました。しかし、まだ隣の部屋に子供が寝ています。飛びあがつて、そちらへ行つて、いきなり馬乗りになつて、とんでもない事をやりそうなんです。とても、そうしては居れない。……そいで、このリュックと——壁にかかつていたのをそのまま——と、——机の上の花びんに差してあつたこの花を抜き取つたのが、どういう気持ちだつたか、それが、自分にもわからないんですがね。飛び出したんです。

『三好十郎作品集』第2巻、河出書房、1952年(初出「群像」1950年2月号)

熊丸信吉は、二年後の『冒した者』(1952)で造形される須永像の素描のように見えなくもない。須永は劇作家の「私」の家を来訪し、死んだ恋人の義父や実母や米屋の配達人を殺した経緯を淡々と伝え、最後は投身自殺する。須永には、すでに一線を越えた〝超然さ〟を感じるが、熊丸はまだそこまでいかない。彼は御橋の本をたまたま読んでおり、それをデタラメだといい、御橋が開陳する「人生論ダイゼスト」を自分には役に立たないと退ける。それはこの世に耐えて行くために必要な「防御のタテ」だが、自分は「耐えて行くのやめちまつた人間で」「そんなものに用がなくなつた」からと。つまり、須永も熊丸も、作者の分身の考えを撥ね返し相対化する点では共通している。

だが、熊丸の場合、危機の原因が敗戦で日本がガタガタになったせいではと問う御橋に、ほどなく納得してしまうのだ。たしかに近頃「日本人が一人残らずイヤでイヤでしようがなかつた」。みんな「きたならしい、道理の聞きわけのない、それで欲ばかり深くて」「踏みつぶしてやりたくなる。……ツバを吐きかけたくなる。……腹の底から軽蔑していましたね、なるほどいわれて見ると」。さらに自分自身も同じで憎悪の対象だと。このやりとりの前、路上で横たわるピー(売春婦)の髪を、彼は踏みつけた。さらに幕切れで、熊丸はリュックから短刀を取り出し、御橋に貰ってくださいと渡す。人を殺して自死するつもりだったのか。二年後の須永はそうするのだ。いずれにせよ、熊丸の危機は、御橋の言葉がかろうじて届く範囲にある。

一方、須永の場合、彼の殺人の動機や理由は、本人の口から言語化されるが、それは「私」の理解を超えている。というか、『冒した者』で、作者は熊丸の投げ込まれた現実より、さらにのっぴきならない〝現実〟に須永を追い込んだのだろう(モモちゃんに象徴される原爆投下や核の脅威等々)。

劇作家の御橋を演じた石橋は、道中の変化に富む動きや長いセリフを見事にこなした。さすがだと思う(石橋は『Hello〜ピンター作品6選』『月の獣』の舞台も忘れ難い)。熊丸役のチョウは代役らしいが、ベテランの石橋相手に、無意識の領域を感じさせる自然なからだと声が印象的。熊丸のとぼけた感じは多少見られたが、自身をもてあます男の〝不気味さ〟や〝気味の悪さ〟がさらに出ればよい。彼は研修生時代から結構見てきたが、今回、大きな成長を感じだ。御橋が熊丸との間に友愛を感じるシーンでは、感情が動いた。必ずしも三好が意図したものではないかもしれないが。脇の三人も舞台にしっかり貢献していた。

出番を待つ役者らが両袖で控え、黒衣としてツケ打ちしたり、着替えやメイキャップのさまを見せていた。簡素な舞台を観客の想像力で補完する手法か。長塚圭史演出の『浮標(ブイ)』(2011)や『冒した者』(2013)もそうだった。

舞台の前方に家並みのミニチュア(紙細工のような)を設置し、シモテで役者が針金かなにかで手繰るように左右に動かしていた。景色を動かすことで二人の歩行を表す意図なのか。ただ、動きが歩行とシンクロせず、何より最前列の左からだと、効果は分からなかった。

本作は、管見の限り、これまで上演されていないのではないか。ただひたすら歩く行為をどうするかがネックになるのだろう。柳沼氏の試みは、上記の通り、うまくいったと思う。二人のやりとりから、熊丸は御橋の推論に納得したように読めるが、そこに作劇上の妥協というか、不徹底のようなものを少し感じる。熊丸はこのあとどうするのだろうか。舞台では、最後に御橋が空のウィスキーボトルを熊丸が去った方へ投げつけると、時間差で天井から照明器具が落ちてきた。これはなんのオチなのか。

 

新国立劇場演劇「コツコツプロジェクト 第二期」3rd 試演会『テーバイ』2022

「こつこつプロジェクト-ディベロップメント-第二期」3rd 試演会の『テーバイ』を観た(2月16日 水曜 19:00/新国立小劇場)。抽選のため席は選べず最前列の左寄り。近い席は苦手だが面白かった。簡単にメモする。

構成・演出:船岩祐太/原作:ソフォクレス(『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』より)
クレオン:植本純米/アンティゴネ加藤理恵/男①+コロノスの男①+ハイモン:木戸邑弥/神官+コロノスの男②+番人①:國松 卓/イオカステ+イスメネ:小山あずさ/テイレシアス+羊飼+テセウス:成田 浬/オイディプス+評議会の男:西村壮悟/使者+コロノスの男③+ポリュネイケス+番人②+アテナイの使者:藤波瞬平

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ソフォクレスの『オイディプス王』(前428-25)、『コロノスのオイディプス』(前401)、『アンティゴネ』(前441-42)はそれぞれ独立した悲劇だが、この三作を現代化(等身大化)し、合理的に繋ぎ、2時間にうまくまとめている。衣裳は現代服で、セットは机、椅子、乳母車、車椅子など。かつてのシェイクスピア・シアター(ジャンジャン)やイングリッシュ・シェイクスピア・カンパニーの『薔薇戦争』(ボグダノフ&ペニントン)と似た感触があった。アリストテレスが原作から読み取った「カタルシス」はない。むしろ、権力者(クレオン)のあり方にフォーカスしていた。〝平凡な人間がいかにして権力者(独裁者)となるのか〟——とてもアクチュアルな問題だ。冒頭で、国を治める仕事に向いていないと呟くクレオンはアヌイ版『アンチゴーヌ』のそれに近い。その彼が、様々な契機や状況を経ることで自分が統治者として神々に選ばれたと思い込み、いつの間にか独裁者になる。幕切れで、アテナイテセウスからの使者がクレオンを訪ね、放置されたアルゴス兵士の亡骸を埋葬してほしい旨のメッセージを伝える。アルゴスの女(兵士の妻)たちがテセウスにそう嘆願したと。この遣り取りで、テセウスが神々ではなく、アテナイの民に選ばれた王であることが明らかになる*1。この挿話は、両者の統治者としての対照的なあり方を際立たせた。その後、クレオンが統治者としての所信原稿を練り上げ、それを民衆たち(死んだアンティゴネらも含まれる)に演説する印象的な場面で幕となる。セットはシンプルで演出も悪くない。ただ、要所でいわゆる〝聖歌〟のようなカタルシスっぽい合唱曲が流れる度に、少し違和感を覚えた。

クレオンの植本は前半は少しとぼけた演技で権力者にはほど遠い役作りだが、最後は役の一貫性を保ちつつ独裁者となる。見事。アンティゴネの加藤はアヌイ版とはまた別の、とても自然な造形で気に入った。ハイモンの木戸は父クレオンの臣下であり息子として、またアンティゴネを愛する若者として相反する役柄を説得的に演じた。テセウスの成田は強度の高いセリフ回しと存在感で舞台を引き締めた。オイディプスの西村は、冒頭の成り上がり青年社長然とした役作りは面白いが、セリフの意味が少し飲み込みづらい。
古典の現代化は、どうしても原作の大きさや人智を超えた領域(運命、神々)への開かれ方が、矮小化されがちとなる。それはやむを得ないか。
テイレシアス(盲目の予言者)の仮面は〝くちばしマスク〟のように見えた。17世紀ヨーロッパでペスト医師が被ったというあれ。その意図はなにか。当時の予言者はパンデミック下の医者に近い?
盲目の老父オイディプスを世話するアンティゴネ。禁令を破ってまで兄ポリュネイケスの遺体を埋葬するアンティゴネアンティゴネはケアする女性だった。個別に読んだときは気づかなかったが。三週間前、ケアする人/される人のありようを描いたともいえる野原 位(ただし)の映画『三度目の、正直』を見たせいかもしれない*2。コロナ禍で「ケア階級」(エッセンシャルワーカー)の重要性と評価の不当な低さが注目されたが、彼女/彼らを蔑ろにする社会の風潮は、今も昔も変わらない。

*1:アリストテレスによれば、アテナイの国政変革は「テセウスのとき起こったもので…国政は王政からやや離れた」という(『アテナイ人の国制』)。先の挿話はこれをフィクション化したものか。

*2:この映画には、少なくともケアする女性が二人(介護職の月島春・4歳の息子とラッパーの夫をケアする月島美香子)と男性が二人(母を介護した月島生人=樋口明・心療内科の野田宗一郎)登場する。

新国立劇場オペラ《さまよえるオランダ人》2022

さまよえるオランダ人》の初日と千穐楽を観た(1月16日 水曜 19:00,2月6日 日曜 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

指揮者のデスピノーサはN響12月定期の代役で初めて聴いた。力みがちな組曲展覧会の絵》をふっくらした音楽に仕上げたのが印象的。こういうタイプの指揮者は日本にほとんど居ない(みな総じて振りすぎる上、音の〝色合い〟や〝香り〟をさほど顧慮しない)。デスピノーサはゼンパーオーパー(先の新制作《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のセットはこの劇場を模したもの)のコンマス代理から指揮者になったと知りオペラも聴きたいと思った。すると《オランダ人》で即実現。まず初日から。

指揮:ジェームズ・コンロン(入国制限措置により降板 1/5→ガエターノ・デスピノーサ/演出:マティアス・フォン・シュテークマン/美術:堀尾幸男/衣裳:ひびのこづえ/照明:磯野 睦/再演演出:澤田康子/舞台監督:村田健輔/[キャスト]ダーラント:妻屋秀和/ゼンタ:マルティーナ・ヴェルシェンバッハ(同前)→田崎尚美/エリック:ラディスラフ・エルグル(同前)→城 宏憲/マリー:山下牧子/舵手:鈴木 准/オランダ人:エギルス・シリンス(スィリンシュ)(同前)→河野哲平/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団

歌手も三人が代役になった。序曲や第1幕はオケの調子(特に金管)がいまひとつで、さほどワーグナーらしく響かない。やはりイタリア人指揮者には「合ってないのか」と思いきや(じゃあ日本人は…)、第2幕以降は歌手もオケもよくなった。

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第1幕は、ノルウェー船の甲板がシモテからカミテへ平行移動で現れる。そこで船員らが組み体操のように隊列を組むと、シャツの絵柄がジグソーパズル式に合わさり船の甲板が現出する仕掛け(衣裳:ひびのこずえ)。ただ今回は感染防止のためだろう、密に組めずはっきりしなかった(仕方ない)。第2幕では、娘らが糸車で糸を紡ぐ部屋が、第1幕同様、シモテからスライドして来る。とりわけ奥に設えたゼンタの糸車(spinning wheel)は舵輪(steering wheel)に見えるから面白い。男女の社会的な役割を視覚的に相対化させる趣向か(糸車を見るとウィーン・フォルクスオーパが2008年に上演したフロトーの《マルタ》(1847)を思い出す。第2幕で庶民に変装したハリエット(マルタ)が糸車の廻し方を教えられる場面だ。ここで歌われるのが例の「夏の名残のばら」(庭の千草)。ちなみにワーグナー(1813-83)とフリードリヒ・フォン・フロトー(1812-83)は一つ違いで没年は同じ)。

歌手で光ったのはゼンタ役の田崎尚美。田崎ゼンタはオランダ人だけでなく、公演そのものを「救済」した。頬が緩んだのは彼女の歌唱だけ。特に「ゼンタのバラード」は素晴らしかった。劇場の隅々まで響き渡る強音は圧倒的。ただ、初日はピウ・レントの弱音で「救済」を祈るフレーズにもっと表情や艶が出ればと感じた(が、楽日ではほぼ改善されていた。やはり初日の緊張は想像以上らしい)。

オランダ人の河野鉄平は難しい役を好演したと思う。ただ、時に動きが誇張的で多少コミカルに見える。ヴォータンから突然(ユダヤ人を模したともいわれる)アルベリヒやベックメッサーが顔を出す感じ。もっとゆったり動けばオランダ人の〝化け物性〟が出たかもしれない。それとも「さまよえる(永遠の)ユダヤ人」を意識した造形なのか(磔刑への途上にあるイエスを嘲笑したため、呪われて再臨の日まで地をさまようというユダヤ人伝説)。

ダーラントの妻屋秀和は声がよく出るし演技もこなれ安定している。ただ歌唱も演技もやや真っ直ぐすぎる印象も。

エリックの城宏憲ベルカントの感触をよく出していたが、ドイツ語の発音が少し気になった。

マリー役の山下牧子は、こくのある歌声と落ち着いた演技で舞台を引き締めた。

第3幕のラストでゼンタ自身が船に乗り込み、もろとも沈んでいく。すると、陸に残ったオランダ人は次第に苦しみ(喜びのうちに)死んでいき、幕となる。

だが、ワーグナーの台本では、ゼンタが岩礁から海に身を投げると「ものすごい音を立てて、オランダ人の船が沈没する」。やがて、水面から現れた岩礁の上で「ゼンタがオランダ人を抱き起こし、胸に抱きしめ、視線と片方の手で天を示す。その岩礁は音もなくどんどん立ち上がり、いつの間にか、雲の形となる。最後の3小節で、幕がさっと下りる」(井形ちづる訳)。

まるで昨秋の新制作バレエ『白鳥の湖』(1877初演/1895蘇演)の幕切れみたいだ。『白鳥』では、オデットとの永遠の愛の誓を我知らず破ったジークフリードは、湖に身を投げたオデットの後から、自分も身を投げる。すると、抱き合う二人の姿が彼方に現れる。《オランダ人》(1843)とは男女が逆だし、状況も異なるが、愛の誓いや入水自殺が絡む点は共通している。そもそもチャイコフスキーは、このバレエ音楽の主要動機を《ローエングリン》(1850)の「禁断の問い」から着想したのではなかったか。ジークフリードの名も《指環》の英雄と同じことを思えば、両者の浅からぬ関係が見て取れる。

初日の後、デスピノーサのインタビュー動画を見た。序曲のカット(知らなかった)について演出家とオンラインで遣り取りし復元した経緯や、この期のワーグナーベルカントなどイタリアオペラの影響が強い等々、知的にドイツ語で語るのを聞いた。なるほど、円熟期のいわゆるワーグナー的響きを本作に求めるのはアナクロだった。無性に公演を観(聴き)直したくなり、楽日の3階席を入手(その翌日はデスピノーサが連続で振る《愛の妙薬》の初日)。

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楽日は、マリー役の山下牧子が(ひとつ前の2月2日から)「都合により出演できなくなり」同役を金子美香が歌唱を、再演演出の澤田康子が演技を務めた。《カルメン》初日(2021.7.3)と同じ状況。澤田の演技は見事で乳母そのもの。ただ金子はシモテの袖(客席からは見えない)で歌ったせいか、歌声がやや細めで本体(澤田)に見合わず(失礼)。他は基本的には初日と変わらない。序曲は初日よりまとまりはあった。ただ、オケはホルンやトランペット(トップ以外)のソロが不安定。弦の中低音は悪くないが、ヴァイオリン群がいまひとつの印象だった。《愛の妙薬》との連続上演が影響したのか。それから、第3幕だったか、舵手の鈴木准が他の船員たちに遊びで小突かれるシーンは、初日と違い、鈴木以外マスクを付けていた(感染力の強いオミクロン株への用心だろう)。

新国立劇場 オペラ《愛の妙薬》2022

愛の妙薬》の初日を観た(2月7日 月曜 19:00/新国立劇場オペラハウス)。劇場の初演は2010年4月、再演が13年1–2月、再再演18年3月で、今回が4回目。

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入国制限のため指揮は前日千穐楽を迎えた《さまよえるオランダ人》の代役に続き、ガエターノ・デスピノーサが務め、歌手は全員日本人の配役。結果は、素晴らしかった。このプロダクションを初めていいと思った。本や文字をベースとしたポップな美術で牧歌的ならぬ人工的なセット。これがあまり好みでなかったが、バスク地方のパストラルな雰囲気を、セットの代わりにオケが音楽でつくり出した。その効果なのか、人工的な美術がさほど気にならない。というか、ポップな舞台で織りなす喜劇をすんなり受け入れることができた。日本の歌手陣も健闘したが、何より、それを支えたデスピノーサの指揮が素晴らしい。柔らかで弾性のある音色(昨日と同じオケとは思えない)、絶妙なテンポ感や歌手への的確な指示、アッチェランドからクライマックスに至る衝迫(これが昨年〝ワグネリアン〟指揮の《チェネレントラ》に欠けていた)等々。デスピノーサはワーグナーも(特に第二幕)面白かったが、やはりイタオペが合っていた。水を得た魚とはこのことだ。学識はむろん大事だが、からだに染みついた感覚は掛け替えのない財産である。以下は簡単なメモ。

全2幕〈イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉令和2年度 文化庁 子供文化芸術活動支援事業/作曲:ガエターノ・ドニゼッティ/指揮:フランチェスコ・ランツィロッタ(入国制限措置等の諸般の事情により)→ガエターノ・デスピノーサ/演出:チェーザレ・リエヴィ/美術:ルイジ・ペーレゴ/衣裳:マリーナ・ルクサルド/照明:立田雄士/アディーナ:ジェシカ・アゾーディ(同前)→砂川涼子/ネモリーノ:アン・フランシスコ・ガテル(同前)→中井亮一/ベルコーレ:ブルーノ・タッディア(同前)→大西宇宙/ドゥルカマーラ:ロベルト・デ・カンディア(同前)→久保田真澄/ジャンネッタ:九嶋香奈枝/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団コンサートマスター:水谷 晃)

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アディーナの砂川涼子はアジリタを含め、きれいな歌唱。落ち着きもある。幕切れの最後の高音では少し息切れしたが(カーテンコールの悔し顔)、好かったと思う。中井亮一は、少し頭の弱いネモリーノ役がよく合っており、「人知れぬ涙」を役のなかで歌ったのは好印象。紙切れが上から落ちてくるあの場面、アルファベットの立体セットが置かれたままだった。従来〝何もない空間〟にもっと沢山の紙が降ってきた記憶がある…(感染リスク軽減のため?)。ベルコーレの大西宇宙はノリのよい動きで、歌唱も雄弁(アメリカ教育の賜物か)。演技は少し食み出し気味だが、好い。ドゥルカマーラの久保田真澄は歌唱も演技も大したもの。砂川、中井、久保田の好演を見るにつけ、藤原歌劇団の底力を感じた(ゼッダ先生の薫陶のお陰か)。唯一初演・再演の舞台を踏んだジャンネッタの九嶋香奈枝は、当たり前のようにしっかり役をこなした。

デスピノーサは、この公演が終わると2月18日に京都市響(首席客演指揮者は例のアクセルロッド)の定演で、3月3日に愛知県芸術劇場東芝グランドコンサート)で、さらに6月25日は群響の定演を高崎芸術劇場で、それぞれ指揮するらしい。アクセルロッドに引けを取らぬ大活躍だ。

彼はこのまま6月の群響定演まで日本に滞在するのか。まさかね。新国立の次回公演は3月10日の《椿姫》だ。HPで指揮は依然アンドリー・ユルケヴィッチのまま。ウクライナ人のユルケヴィッチはゼッダ等から学び、現在【元らしい】ポーランド国立歌劇場の音楽監督という。彼は3月初旬に来日できるのか。もしだめなら、ぜひデスピノーサに振ってほしい。ヴェルディはきっと得意のはず。たぶん劇場は、状況の推移をぎりぎりまで見定めているのだろう。

2月のフィールドワーク予定 2022(二人の代役指揮者のことなど)【追加】【中止の追記】

ガエターノ・デスピノーサ(11月)とジョン・アクセルロッド(1月)を知ったのはN響定期を代役で指揮したとき。二人とも大変気に入った。

デスピノーサは、とかく力みがちな組曲展覧会の絵》を豊かでふっくらした音楽に仕上げた。彼はゼンパーオーパー(シュターツカペレ・ドレスデン)のコンマスから指揮者になったという。オペラも聴きたいと思ったら、新国立劇場さまよえるオランダ人》の代役指揮ですぐに実現。初日を聴いた。序曲や第一幕はオケの調子(特に金管)がいまひとつで、さほどワーグナーらしい響きはない。やはりイタリア人指揮者には「合ってないのか」と思いきや(じゃあ日本人はどうなのか)、第二幕は歌手もオケも素晴らしく、トータルでは満足して劇場を出た。その後、デスピノーサのインタビュー動画を見た。序曲のカット(知らなかった)について演出家と話して元に戻した経緯や、この期のワーグナーベルカントなどイタオペの影響が強い等々、ドイツ語で語るのを聞いた。なるほど、中期以降のいわゆるワーグナー的響きを本作に求めたこちらがアナクロ(筋違い)だった。無性に聴き直したくなり、楽日のチケットを入手。その翌日は、デスピノーサが連続で振る《愛の妙薬》の初日だ。ドイツものとイタリアものをどう振り分けるか。楽しみ。

アクセルロッドN響のCプロでブルッフのヴァイオリン協奏曲とブラーブスの交響曲第3番を振った。独奏の服部百音は集中力と感覚が抜群。圧倒的な音とは言えないけど、こだわりのある音楽家だ。お辞儀がすごく丁寧で長い。ちょっと能みたいな感じ(笑わないし)。アンコールは「庭の千草変奏曲」。決して超絶っぽく弾かず、弱音を大事にし、糸を引くような感じ。すごく水分を含んだ音色で、きれいだった。アクセルロッドは、ブルッフのときオケの音を変えるタイプじゃないなと思ったが、ブラームスになると、違った。弦も管ものびのびと歌わせる。特に印象的なのは第二楽章。木管がとても自然で美しかった。例の第三楽章は思い入れを抑えさらっと振るが、チェロをはじめオケの方が自発的かつ伸びやかに歌う。フィナーレも自然さと自発性を失わず、ふっくらした気品のある音楽が生まれた。その後、彼の振る Bプロ定期が関係者の陽性で中止になったらしい。その日は《さまよえるオランダ人》の初日だったが、本番を失ったアクセルロッドをフォワイエで見かけたと思う(マスク姿で不確かだが)。もう一人の代役の活躍を見に来たのか。これで帰国するのかと思いきや、そのアクセルロッドが都響チャイコフスキーを振ると知り、聴くことにした。むろんこれも代役だ。

今月のN響Cプロ定期はヤルヴィの代わりに鈴木雅明が振る。リヒャルト・シュトラウスストラヴィンスキーに変えて。これも楽しみだ。BCJの定演でモーツァルトを振るのは鈴木優人の方。

演劇では市原佐都子の作・演出を初めて見る(シアターコモンズ)。『バッコスの信女——ホルスタインの雌』は見損ねた。自分(の身体=無意識)がどう反応するか楽しみ。

バレエでは「吉田都セレクション」がある。演目変更もあったが『アラジン』と『こうもり』(いずれも抜粋)を久し振りに見られるのは嬉しい。

2日(水)14:00 新国立劇場 演劇研修所 第15期生修了公演『理想の夫』作:オスカー・ワイルド/翻訳:厨川圭子/演出:宮田慶子/美術:池田ともゆき/照明:中川隆一/音響:信澤祐介/衣裳:西原梨恵/演出助手:高嶋柚衣/舞台監督:川原清徳/主催:文化庁新国立劇場 @新国立小劇場

↑男女や夫婦の関係や感情のあり方などを俯瞰的に分析したうえで書いた印象。ラストはちょっと感動的な場面だが、決して作者は共感していないだろうと思わせる。なんか三島由紀夫みたいだ(三島がワイルドみたいというべきか)。宮田慶子の演出を見て彼女の監督時代が懐かしかった。

6日(日)14:00 新国立劇場オペラ《さまよえるオランダ人》指揮:ジェームズ・コンロン(入国制限措置により降板 1/5)ガエターノ・デスピノーサ/演出:マティアス・フォン・シュテークマン/美術:堀尾幸男/衣裳:ひびのこづえ/照明:磯野 睦/再演演出:澤田康子/舞台監督:村田健輔/[キャスト]ダーラント:妻屋秀和/ゼンタ:マルティーナ・ヴェルシェンバッハ(同前)→田崎尚美/エリック:ラディスラフ・エルグル(同前)→城 宏憲/マリー:山下牧子/舵手:鈴木 准/オランダ人:エギルス・シリンス(スィリンシュ)(同前)→河野哲平/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団/協力:日本ワーグナー協会 @新国立劇場オペラハウス

7日(月)19:00 新国立劇場オペラ《愛の妙薬》全2幕〈イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉令和2年度 文化庁 子供文化芸術活動支援事業/作曲:ガエターノ・ドニゼッティ指揮:フランチェスコ・ランツィロッタ(入国制限措置等の諸般の事情により)ガエターノ・デスピノーサ/演出:チェーザレ・リエヴィ/美術:ルイジ・ペーレゴ/衣裳:マリーナ・ルクサルド/照明:立田雄士/アディーナ:ジェシカ・アゾーディ(同前)→砂川涼子/ネモリーノ:アン・フランシスコ・ガテル(同前)→中井亮一/ベルコーレ:ブルーノ・タッディア(同前)→大西宇宙/ドゥルカマーラ:ロベルト・デ・カンディア(同前)→久保田真澄/ジャンネッタ:九嶋香奈枝/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽:東京交響楽団

11日(金・祝)都響 プロムナードコンサート #395 シベリウス組曲《カレリア》op.11シベリウス交響曲5 変ホ長調 op.82指揮:オスモ・ヴァンスカ(「オミクロン株に対する水際措置の強化」に伴う外国人の新規入国停止措置が2月末まで延長となったため指揮者・曲目を変更)指揮:ジョン・アクセルロッド/チャイコフスキー:歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「ポロネーズ」/グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 op.82/チャイコフスキー交響曲第4番 ヘ短調 op.36/ヴァイオリン:富田 心サントリーホール

11日(金・祝)N響 #1952 定演〈池袋Cプロ〉R. シュトラウスバレエ音楽《ヨセフの伝説》から交響的断章/R. シュトラウス:《アルプス交響曲》指揮:パーヴォ・ヤルヴィ(「オミクロン株に対する水際措置の強化」により外国人の新規入国停止措置のため曲目および指揮者を変更)ストラヴィンスキー組曲《プルチネッラ》/ストラヴィンスキーバレエ音楽ペトルーシカ》(1947年版)指揮:鈴木雅明 @東京芸術劇場コンサートホール

16日(水)19:00 新国立劇場演劇「こつこつプロジェクト -ディベロップメント- 第二期」3rd試演会『テーバイ』原作:ソフォクレス(『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』『アンティゴネ』より)構成・演出:船岩祐太/出演:植本純米、加藤理恵木戸邑弥、國松 卓、小山あずさ、成田 浬、西村壮悟、藤波瞬平 @新国立小劇場

17日(木)19:00 新国立劇場演劇「こつこつプロジェクト -ディベロップメント- 第二期」3rd試演会『夜の道づれ』作:三好十郎/演出:柳沼昭徳/出演:石橋徹郎、日髙啓介(理由は不明だが当初の記載から変更)→チョウ ヨンホ、林田航平、峰 一作、滝沢花野 @新国立小劇場

19日(土)14:00 新国立劇場バレエ団「吉田都セレクション」ファン・マーネン『ファイヴ・タンゴ』新制作/フォーサイス『精確さによる目眩くスリル』新制作(オミクロン株への水際対策強化により公演準備を万全に進めることが困難となり演目変更)新国立劇場バレエ団Choreographic Group作品より〉『Coppélia Spiritoso』振付:木村優/音楽:レオ・ドリーブ 他/出演:木村優子木村優里|『人魚姫』振付:木下嘉人/音楽:マイケル・ジアッチーノ/出演:米沢 唯、渡邊峻郁|『Passacaglia』振付:木下嘉人/音楽:ハインリヒ・ビーバー/出演:小野絢子、福岡雄大、五月女遥、木下嘉人(以上 録音音源での上演)||『アラジン』より「序曲」「砂漠への旅」「財宝の洞窟」振付:デヴィッド・ビントレー/音楽:カール・デイヴィス/美術:ディック・バード/衣裳:スー・ブレイン/照明:マーク・ジョナサン/[キャスト]アラジン:奥村康祐/ダイヤモンド:米沢 唯サファイア:柴山紗帆/ルビー:奥田花純、渡邊峻郁||『こうもり』より「グラン・カフェ」振付:ローラン・プティ/音楽:ヨハン・シュトラウスⅡ世/編曲:ダグラス・ガムレイ/美術:ジャン=ミッシェル・ウィルモット/衣裳:ルイザ・スピナテッリ/照明:マリオン・ユーレット、パトリス・ルシュヴァリエ/[キャスト]ベラ:小野絢子/ヨハン:福岡雄大/ウルリック:福田圭吾/指揮:冨田実里/管弦楽:東京交響楽団新国立劇場オペラハウス「公演関係者に…2名の陽性反応者が確認され…公演準備が整わないため」全公演が中止となった

20日(日)15:00 BCJ #146 定演 A. モーツァルト《戴冠ミサ曲 K 317》《第一戒律の責務 K 35》指揮:鈴木優人/ソプラノ:中江 早希 (K 317, K 35) 松井 亜希(K 35) 澤江衣里(K 35)/アルト:青木 洋也 (K 317)/テノール:櫻田 亮 (K 317, K 35) 谷口洋介 (K 35)/バス:加耒 徹 (K 317)/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン @東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

【21日(月)15:00メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年」国立新美術館 企画展示室1E】

21日(月)18:00 シアターコモンズ’22『妖精の問題 デラックス』作・演出:市原佐都子(Q)出演:[第一部]朝倉千恵子・筒井茄奈子[第二部]大石英史・キキ花香[第三部]廣川真菜美・富名腰拓哉・緑ファンタ/音楽:額田大志(東京塩麹/ヌトミック)/演奏:秋元修、石垣陽菜、高橋佑成、額田大志/舞台美術:dot architects/衣裳:南野詩恵/照明:魚森理恵/音響:稲荷森健/映像:小西小多郎/舞台監督:川村剛史(ロームシアター京都)/ドラマトゥルク:木村覚/演出助手:山田航大/制作助手:寺澤聖香/制作協力:山里真紀子(Q) @リーブラホール

23日(水・祝)14:00 新国立劇場バレエ団「吉田都セレクション」新国立劇場オペラハウス

23日(水・祝)18:00 名取事務所 公演『ペーター・ストックマン—『人民の敵』より』作:イプセン/翻訳:毛利三彌/翻案・演出: 瀬戸山美咲/出演:西尾友樹、森尾 舞、山口眞司、野坂 弘、水野小論、小林亜紀子、小泉将臣 @吉祥寺シアター

24日(木)13:00 シアターコモンズ’22 演劇的インスタレーション『吊り狂い』上演言語:英語(日本語字幕つき)/コンセプト&演出&脚本:モニラ・アルカディリ+ラエド・ヤシンロボットシステム開発:菅野 創+ピート・シュミット/音楽:ラエド・ヤシン/ヘッドペインティング:サイード・バアルバキ/企画・製作:ベルリン芸術祭・70周年記念プログラム「Wild Times, Planetary Motions」(キュレーション:ナターシャ・ギンワラ、イェルーン・フェルステール)東京公演 舞台協力:株式会社ステージワークURAK/協力:ゲーテ・インスティトゥート東京 @SHIBAURA HOUSE 5F

27日(日)13:00 シアターコモンズ’22 レクチャーパフォーマンス『おばけ東京のためのインデックス第1章』構成・演出・出演:佐藤朋子 @SHIBAURA HOUSE 5F

新国立劇場バレエ団「ニューイヤー・バレエ」2022

「ニューイヤー・バレエ」の初日と2日目を観た(14日 金曜 19:00,15日 土曜 14:00/新国立劇場オペラハウス)。

当初はアシュトン『夏の夜の夢』新制作の予定が「新型コロナに係る入国制限等に鑑み〈新制作〉の公演準備を万全の状態で進めることが困難と判断」され(10/13)、ビントレーの『ペンギン・カフェ』に変更となった。『ペンギン』は昨年の「ニューイヤー」演目だが関係者に陽性反応が出て一旦中止となった後、急遽、無観客の無料配信を敢行した。ゆえに本作の生舞台は9年振りとなる。

指揮:ポール・マーフィー(新型コロナ オミクロン株への政府の水際対策強化により来日不可)→冨田実里/管弦楽:東京交響楽団

初日(1階15列中央)定刻が過ぎてもなかなか始まらない。芸術監督が定席に居ない。16列が半分空いている。なにかあったのか…? あれこれ心配したが、高円宮妃の臨席が理由だった。12分ほど遅れてスタート。

『テーマとヴァリエーション』振付:ジョージ・バランシン/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術:牧野良三/衣裳:大井昌子/照明:磯野 睦

出演:[初日]米沢 唯、速水渉悟(怪我のため降板)→奥村康祐[2日目]柴山紗帆、渡邊峻郁

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米沢は丁寧かつリリカルで、内から生命感が湧き出る。初日のロイヤル臨席下でかなりプレッシャーがかかったはずだが、しっかりと責任をまっとうした。バランスのアクロバティックなやりとりもきれいにこなす。奥村も丁寧な踊りで、特に二つ目のソロは好かった。ただ、米沢の相手としては少し身体が小さく感じる。パ・ド・ドゥでのリフトはもう少し高さがほしい。それでも二人の踊りには喜びが感じられた。ブルー系の濃淡を活かした群舞のコスチュームは洗練された美しさ。2列目・3列目のダンサーたちも充実した踊り。冨田指揮の東響は、前半は丁寧かつ慎重に探る感じか。ニキティンのヴァイオリンソロは崩しすぎず綺麗だった。だが、フィナーレの、ホルンのファンファーレから始まる華やかなポロネーズは、もっと迸るような勢いがほしかった。初日は、熱量より規律を優先させたのかもしれない。2日目に期待したい。

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2日目(3階1列中央)。3階からだとバランシンの素晴らしいフォーメーションがよく分かる。初役の柴山沙帆は緊張からかソロで少しよろめいた。それが後を引き、どこか上の空で持ち前の〝ターボエンジン〟も不発。なんとか切り替えて、自分のよさを舞台に捧げてほしかった。渡邊峻郁は悪くないのだが、二人から喜びや気持ちのやりとりが感じられない。この日もフィナーレの音楽は弾けず、こちらの心も浮き上がらない。冨田氏はバレエ経験者らしいから、本作を踊るダンサーの大変さは人一倍わかるだろう。恐らくその分、ダンサーへの気配りが強まり、オケの自然発生的な高揚や勢いの増大が制御されてしまったか。残念。

ペンギン・カフェ』振付:デヴィッド・ビントレー/音楽:サイモン・ジェフス/美術・衣裳:ヘイデン・グリフィン/照明:ジョン・B・リード

[キャスト]ペンギン:広瀬 碧/ユタのオオツノヒツジ:[初日]木村優里 [2日目]米沢 唯、井澤 駿/テキサスのカンガルーネズミ:福田圭吾/豚鼻スカンクにつくノミ:[初日]五月女遥 [2日目]奥田花純/ケープヤマシマウマ:奥村康祐/熱帯雨林の家族:[初日]小野絢子&中家正博(交代理由は不明)→小野絢子&貝川鐵夫 [2日目]本島美和&貝川鐵夫/ブラジルのウーリーモンキー:福岡雄大

2013年の再演時ほど詳しく書けないが、簡単にメモする。

初日。こんな作品はビントレーにしか創れない。2010年に初めて見た時もそう思った。楽しくユーモラスだがラストは物悲しい。一見すると子供向けみたいだが、人間や社会への深い洞察と問題意識に裏打ちされている。かといって、教訓めいた臭味や啓蒙的な〝上から目線〟など微塵もない。喩えるなら最上質の絵本か。ビントレーが来日指導すれば、細かなニュアンスは多少とも修正されるだろうが、これはこれでよい。舞踏会のシーンで、初めは誰か分からず、好いダンサーだなと思ったら小野だった。さすが。浜崎恵二郞のタキシードの踊りはとてもカッコイイ。豚鼻スカンクにつくノミの五月女と民族舞踊を踊るときの浜崎は三枚目。その落差が楽しい。ただ、ユタのオオツノヒツジの木村は初役らしいが、自分を誇示するこれ見よがしの踊りは作品のコンセプトから食み出していた。

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2日目。米沢のユタのオオツノヒツジには目を見張った。踊りが伸びやかでキレもあり、リリカルな艶が内側からおのずと出てくる。相手の井澤駿は、昨日とは別人のよう。こうも変わるものか。テキサスのカンガルーネズミの福田圭吾は、後半の音楽とのタイミングが改善された。豚鼻スカンクにつくノミの奥田花純は初役。楽しそうに動き回り、少し様式から外れ気味だが好い。ケープヤマシマウマの奥村は、直前のモリス・ダンスで原が落とした帽子を振りの中でカミテの袖へ投げ込んだ。見事!「気高く誇り高い」ありようも好い。カモシカの頭蓋骨を被りシマウマのドレスを身に纏ったモデルたちの、例の(金井克子張り)の手の動きが初めて腑に落ちた。自分の顔の前で黒手袋の手を動かすのは、シマウマが撃ち殺されている現実を、〝私たちが〟シマウマを殺している現実を、見ないという意思表示ではないか。見ようと思えば見えるはずだが、見ないという、われわれの自己欺瞞的な無関心。熱帯雨林の家族のシーンは、貝川が登場し、本島と子役が出てくると、舞台の空気が一変。それだけでグッときた。彼らの穏やかな生活。家族愛。無垢。それが開発等により破壊されていく。シーンの最後でシモテ寄りに三人が佇み、客席の方を哀しげに見つめる。痺れた(本島は舞踏会の踊りも大きくて見栄えがした)。ブラジルのウーリーモンキーの福岡雄大はワイルドで生きのよい踊り。さすが。雨(酸性雨?)が降ってくる終曲については13年のブログに譲りたい。ただ、みんなが箱舟に入った後、ペンギンの広瀬碧だけ取り残されるシーンについて一言。昨年の配信では、初演・再演のさいとう美帆の残像があったせいか、少し物足りなさを感じた。が、今回、自分の運命(絶滅)を知らず快活に動く広瀬ペンギンを生の舞台で見て、こころが動いた。むしろこの、無意識で、無垢な快活さこそ、ビントレーが目指した造形かもしれないと。今思えば、さいとう美帆のペンギンには、いくらか自己憐憫が混じっていたようにも思う。それにしても作品理解の深い米沢唯と本島美和が加わるだけで、舞台全体が見違えるほどよくなった。

34年前の初演以来、環境問題は悪化の一途をたどり、いまや待ったなしの〝気候危機〟だ。『ペンギン・カフェ』の上演意義はますます深いといわざるをえない。

幕切れで、カーテンが完全に降りきるまで本作に込められたものを静かに味わう観客がひとりでも増えていきますように。