11月のフィールドワーク予定 2021【コメント付】

新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』の上田公演で米沢唯は速水渉悟と組むはずが、速水が怪我で降板。本公演同様、福岡雄大と踊ることになった。大変残念だが、若い速水は今後のバレエ団を、というか日本のバレエ界を背負って立つべき逸材だ。この際じっくり養生して欲しい。横山拓也(iaku)の『フタマツヅキ』に続き、文学座公演の『ジャンガリアン』も新作だ。横山演劇の肝である「場面転換の妙」と「二重の時間軸」が、後者ではどんな舞台を生み出すのか。楽しみにしている。

2日(火)14:00 新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』振付:マリウス・プティパ&レフ・イワーノフ+ピーター・ライト/演出:ピーター・ライト[主要キャスト]オデット&オディール:柴山沙帆/ジークフリード王子:井澤 駿/王妃:本島美和/ロットバルト男爵:中島峻野/ベンノ:福田圭吾/クルティザンヌ(パ・ド・カトル):奥田花純、広瀬 碧/ハンガリー王女:中島春菜/ポーランド王女:根岸祐衣/イタリア王女:赤井綾乃/指揮:ポール・マーフィー @新国立劇場オペラハウス

5日(金)17:00 チェルフィッチュ×藤倉大 with Klangforum Wien 新作音楽劇 ワークインプログレス公演/作・演出:岡田利規/作曲:藤倉 大/出演:青柳いづみ、朝倉千恵子(ワークインプログレス公演は出演なし)、大村わたる、川﨑麻里子、椎橋綾那、矢澤 誠/演奏:Klangforum Wien(映像出演)、吉田 誠(クラリネット)、アンサンブル・ノマド弦楽四重奏)/ドラマトゥルク:横堀応彦/舞台監督:川上大二郎/音響:白石安紀(石丸組)/サウンドデザイン:永見竜生(Nagie)/照明:髙田政義(RYU)/映像:山田晋平(青空)/撮影:冨田了平:宣伝美術:大竹竜平/プロデューサー:黄木多美子、水野恵美/プロダクションマネージャー:遠藤七海/制作デスク:斉藤友理/主催:独立行政法人国際交流基金/企画制作:一般社団法人チェルフィッチュ、株式会社precog(本公演は2023年にウィーン芸術週間委嘱作品として発表予定)@タワーホール船堀 小ホール

7日(日)14:00  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』/オデット&オディール:米沢 唯/ジークフリード王子:速水渉悟(怪我のため降板)→福岡雄大/指揮:冨田実里/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団 @サントミューゼ(上田市)大ホール

12日(金)19:00 新国立劇場 演劇『イロアセル』[フルオーディション4]作・演出:倉持 裕/美術:中根聡子/照明:杉本公亮/映像:横山 翼/音響:高塩 顕/音楽:田中 馨/衣裳:太田雅公/ヘアメイク:川端富生/振付:小野寺修二/演出助手:川名幸宏/舞台監督:橋本加奈子/出演:伊藤正之 東風万智子 高木 稟 永岡 佑 永田 凜 西ノ園達大 箱田暁史 福原稚菜 山崎清介 山下容莉枝 @新国立小劇場

15日(月)18:30 文学座公演『ジャンガリアン』作:横山拓也/演出:松本祐子/出演:たかお鷹 高橋克明 林田一高 奥田一平 川合耀祐 吉野由志子 金沢映実 吉野実紗/美術:乘峯雅寛/照明:賀澤礼子/音響:丸田裕也/衣裳:山下和美/舞台監督:加瀬幸恵/演出補:五戸真理枝/制作:田中雄一朗、最首志麻子、白田 聡/宣伝美術:チャーハン・ラモーン @紀伊國屋サザンシアター

18日(木)16:00 オペラ夏の祭典2019-20 Japan↔Tokyo↔World リヒャルト・ワーグナーニュルンベルクのマイスタージンガー》[新制作]全3幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉指揮:大野和士/演出:イェンス=ダニエル・ヘルツォーク/美術:マティス・ナイトハルト/衣裳:シビル・ゲデケ/照明:ファビオ・アントーチ/振付:ラムセス・ジグル/演出補:ハイコ・ヘンチェル/舞台監督:髙橋尚史/[キャスト]ハンス・ザックス:トーマス・ヨハネス・マイヤー/ファイト・ポーグナービャーニ・トール・クリスティンソン(本人の都合で降板)→ギド・イェンティンス/クンツ・フォーゲルゲザング:村上公太/コンラート・ナハティガル:与那城 敬/ジクストゥス・ベックメッサーアドリアン・エレート/フリッツ・コートナー:青山 貴/バルタザール・ツォルン:菅野 敦(下記交代から玉突き式に)→秋谷直之/ウルリヒ・アイスリンガー:鈴木 准/アウグスティン・モーザー:伊藤達人(ダーヴィッド役の変更により)→菅野 敦/ヘルマン・オルテル:大沼 徹/ハンス・シュヴァルツ:長谷川 顯/ハンス・フォルツ:妻屋秀和/ヴァルター・フォン・シュトルツィング:トミスラフ・ムツェック(健康上の理由で降板)シュテファン・フィンケ/ダーヴィット:望月哲也(健康上の理由で降板)→伊藤達人/エーファ:林 正子/マグダレーネ:山下牧子/夜警:志村文彦/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団、二期会合唱団/管弦楽東京都交響楽団/協力:日本ワーグナー協会/令和3年度(第76回)文化庁芸術祭協賛公演/文化庁委託事業「令和3年度戦略的芸術文化創造推進事業」/新国立劇場東京文化会館ザルツブルクイースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場の国際共同制作 @新国立劇場オペラハウス

19日(金)19:30 N響 #1943 定演〈池袋Cプロ〉ブルックナー交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンチック」指揮:ファビオ・ルイージ東京芸術劇場コンサートホール

N響は優秀。緻密で強い演奏に感心はしたが、からだは反応せず。もっと森の匂いや気配を感じる弾性のある音が聴きたかったらしい。開演前のブルックナー《弦楽五重奏曲 ヘ長調》 第3楽章は好かった。ブルックナー節を室内楽で満喫した。/ふっくら感の乏しい押し潰すようなルイージの強音は、自分の好みとは合わなかった。彼の指揮を生で聴いたのは2006年 新国立劇場《カヴァレリア・ルスティカーナ&道化師》以来。[と思いきや、2007年にドレスデン国立歌劇場(ゼンパーオーパー)の来日公演で《ばらの騎士》と《サロメ》を聴いていた。]ブロムシュテットでは音の響きに思わず頬が緩んだが、今後ルイージの作る音楽に自分のからだがどう反応するか。確かめたい。(11/20ツイート)

20日(土)15:00 「砂川涼子 ソプラノ・リサイタル」W. A. モーツァルト:歌劇《コジ・ファン・トゥッテ》より「岩のように」 歌劇《フィガロの結婚》より「恋人よ、早くここへ」 歌劇《イドメネオ》より「お父様、兄弟たちよ、さようなら」 歌劇《ドン・ジョヴァンニ》より「恋人よ、さあこの薬で」/P.マスカーニ:「セレナータ」 「花占い」 「月」/R.シュトラウス:「朝」/R.レオンカヴァッロ:「朝」/O.レスピーギ「夜」/A.ドヴォルザーク:歌劇《ルサルカ》より「月に寄せる歌」/ピアノ:園田隆一郎 @成城ホール

26日(金)19:00 BCJ #145 定演〈待降節カンタータ〉教会カンタータ・シリーズ vol. 79 J. S. バッハ:トッカータとフーガ ヘ長調 BWV 540*, カンタータ第61番《いざ来ませ、異邦人の救い主よ》BWV 61, クリスマス・オラトリオ BWV 248から第1部、第2部、第3部/指揮:鈴木優人/ソプラノ:森麻季/アルト:アレクサンダー・チャンス(入国制限の隔離措置の緩和が見通せないため)→青木洋也/テノール:櫻田 亮/バス:ドミニク・ヴェルナー/オルガン:鈴木雅明*/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

27日(土)14:00 新国立劇場バレエ団 DANCE to the Future: 2021 Selection/照明:眞田みどり/音響:仲田竜/Choreographic Group アドヴァイザー:遠藤康第1・2部新国立劇場バレエ団 Choreographic Group 作品より)『Coppélia Spiritoso』振付:木村優/音楽:レオ・ドリーブ 他/出演:木村優子 木村優里|『人魚姫』振付:木下嘉人/音楽:マイケル・ジアッチーノ/出演:米沢 唯 渡邊峻郁|『コロンバイン』(「DANCE to the Future 2020」未公開作品)振付:髙橋一輝/音楽:ソルケット・セグルビョルンソン/出演:池田理沙子 渡辺与布 玉井るい 趙 載範 佐野和輝 髙橋一輝|『≠(ノットイコール)』振付:柴山紗帆 益田裕子 赤井綾乃 横山柊子/音楽:渡部義紀/出演:益田裕子 赤井綾乃 横山柊子 柴山紗帆|『神秘的な障壁』(「DANCE to the Future 2020」未公開作品)振付:貝川鐵夫/音楽:フランソワ・クープラン/出演:米沢 唯(27日)/木村優里(28日)|『Passacaglia』振付:木下嘉人/音楽:ハインリヒ・ビーバー/出演:小野絢子 福岡雄大 五月女遥 木下嘉人||第3部 ナット・キング・コール組曲(DANCE to the Future 2011にて初演)振付:上島雪夫/音楽・歌:ナット・キング・コール ほか/照明:杉浦弘行/衣裳:有村 淳/出演:本島美和 寺田亜沙子 奥田花純 細田千晶 益田裕子 今村美由起 貝川鐵夫 福田圭吾 小野寺 雄 福田紘也 中島瑞生 渡部義紀 赤井綾乃 朝枝尚子 徳永比奈子 廣田奈々 @新国立中劇場

 

10月のフィールドワーク予定 2021【再追記】

今月は楽しみな演目が揃った。大好きなロッシーニの《チェネレントラ》を新国立劇場が新制作する。ただ、イタリア人指揮者が「本人の都合」でキャンセルし(14日間隔離の都合か)、代わりに振るのがワグネリアンなのは少し心配だが(ゼッダ氏の薫陶を受けた園田隆一郎はスケジュールが合わなかったのか…)。

新国立劇場バレエ団がピーター・ライト版『白鳥の湖』の新制作をついに上演する。昨秋 吉田都芸監着任の冒頭に予定されていた演目だ。どんな舞台になるのか(来月は米沢唯と速水渉悟が主演する舞台も上田市で見る予定)。【←残念ながら速水は怪我で降板。米沢は上田でも福岡雄大と組むことに…】【主要キャスト等を追記した】

N響池袋定期で94歳のブロムシュッテットが登場し、ドヴォルザークの8番等を振る。岡田利規が演出するオペラ《夕鶴》も楽しみでしかない。

演劇ではiakuの新作『フタマツヅキ』と劇団銅鑼が手がける小山祐士の一幕物『従姉妹たち』がある。

1日(金)19:00 新国立劇場オペラ〈新制作〉ロッシーニチェネレントラ》全2幕〈イタリア語上演/日本語及び英語字幕付〉令和3年度(第76回)文化庁芸術祭オープニング・オペラ/指揮:マウリツィオ・ベニーニ(「本人の都合により」キャンセル)→城谷正博/演出:粟國 淳/美術・衣裳:アレッサンドロ・チャンマルーギ/照明:大島祐夫/振付:上田 遙/舞台監督:髙橋尚史/[キャスト]ドン・ラミーロ:ルネ・バルベラ/ダンディーニ:上江隼人/ドン・マニフィコ:アレッサンドロ・コルベッリ/アンジェリーナ:脇園 彩/アリドーロ:ガブリエーレ・サゴーナ/クロリンダ:高橋薫子/ティーズ:齊藤純子/合唱指揮:三澤洋史/合唱:新国立劇場合唱団/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

3日(日)14:40 映画『コレクティブ 国家の嘘』監督:アレクサンダー・ナナウ/製作:アレクサンダー・ナナウビアンカ・オアナベルナール・ミショーハンカ・カステリコバ/脚本:アントアネタ・オプリアレクサンダー・ナナウ/撮影:アレクサンダー・ナナウ/編集:アレクサンダー・ナナウジョージ・クレイグダナ・ブネスク/音楽:キャン・バヤニ/出演:カタリン・トロンタンカタリン・トロンタン カメリア・ロイウカメリア・ロイウ テディ・ウルスレァヌテディ・ウルスレァヌ ブラド・ボイクレスクブラド・ボイクレスク ナルチス・ホジャナルチス・ホジャ/2019年製作/109分/ルーマニアルクセンブルク・ドイツ合作 @シアター・イメージフォーラム

【7日(木)16:00 映画『由宇子の天秤』監督・脚本・編集:春本雄二郎/プロデューサー:春本雄二郎 松島哲也 片渕須直/ラインプロデューサー:深澤知/キャスティング:藤村駿/撮影:野口健司/照明:根本伸一/録音:小黒健太郎/整音:小黒健太郎/美術:相馬直樹/装飾:中島明日香/小道具:福田弥生/衣装:星野和美/ヘアメイク:原田ゆかり/音響効果:松浦大樹/医療監修:林恭弘/ドキュメンタリー監修:鎌田恭彦 清水哲也/メイキング:荒谷穂波/[配役]木下由宇子:瀧内公美/小畑萌:河合優実/小畑哲也:梅田誠弘/長谷部仁:松浦祐也/矢野志帆:和田光沙/小林医師:池田良/池田:木村知貴/前原滉/永瀬未留/河野宏紀/根矢涼香/富山宏紀:川瀬陽太/矢野登志子:丘みつ子/木下政志:光石研ユーロスペース←追記

【11日(月)14:00 新国立劇場オペラ〈新制作〉ロッシーニチェネレントラ》全2幕 @新国立劇場オペラハウス】←好いプロダクションだったので3階から再見

21日(木)19:00 劇団銅鑼 Ⅼabo企画 #1〈ラボ自主企画公演〉『従姉妹たち』作:小山祐士/演出:川口圭子/[出演]馬渕真希 永井沙織 福井夏紀 髙辻知枝 宮﨑愛美/[スタッフ]美術設計:村松眞衣/照明プラン:高見澤絹/照明オペレータ:亀岡幸大/音響プラン:真原孝幸/音響オペレータ:中島沙結/大道具:鈴木正昭/チラシデザイン・題字:猪瀬光博/方言指導:(兵庫弁)北畠愛美+(広島弁)干畠 悠/舞台監督:説田太郎/企画制作・美術プラン・チラシ絵:川口圭子@ 劇団銅鑼アトリエ

22日(金)19:30 N響 #1940 定演〈池袋Cプロ〉グリーグ:「ペール・ギュント組曲 第1番 作品46/ドヴォルザーク交響曲 第8番 ト長調 作品88/指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット @芸劇コンサートホール

23日(土)14:00 新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』令和3年度(第76回)文化庁芸術祭主催公演/振付:マリウス・プティパ&レフ・イワーノフ+ピーター・ライト/演出:ピーター・ライト/共同演出:ガリーナ・サムソワ/音楽:ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー/美術・衣裳:フィリップ・プロウズ/照明:ピーター・タイガン/[主要キャスト]オデット&オディール:米沢 唯/ジークフリード王子:福岡雄大/王妃:本島美和/ロットバルト男爵:貝川鐵夫/ベンノ:速水渉悟(怪我のため降板)→木下嘉人/クルティザンヌ(パ・ド・カトル):池田理沙子、柴山紗帆/ハンガリー王女:廣田奈々/ポーランド王女:飯野萌子/イタリア王女:奥田花純/指揮:ポール・マーフィー/管弦楽東京フィルハーモニー交響楽団新国立劇場オペラハウス

24日(日)14:00 新国立劇場バレエ団『白鳥の湖[主要キャスト]オデット&オディール:小野絢子/ジークフリード王子:奥村康祐/王妃:本島美和/ロットバルト男爵:中家正博/ベンノ:福田圭吾/クルティザンヌ(パ・ド・カトル):飯野萌子、廣川みくり/ハンガリー王女:細田千晶/ポーランド王女:池田理沙子/イタリア王女:五月女遥/指揮:ポール・マーフィー 新国立劇場オペラハウス

29日(金)19:00 iaku『フタマツヅキ』作・演出:横山拓也/出演:モロ師岡 杉田雷麟 清水直子 橋爪未萠里 ザンヨウコ 平塚直隆 長橋遼也 鈴木こころ@シアタートラム

30日(土)14:00 全国共同制作オペラ 東京芸術劇場シアターオペラvol.15 歌劇『夕鶴』(新演出)全1幕(日本語上演 英語字幕付き)作曲 : 團伊玖磨/指揮:辻 博之/演出:岡田利規/[スタッフ]美術:中村友美/衣裳:藤谷香子/照明:髙田政義/音響:石丸耕一/映像:山田晋平/ドラマトゥルク:横堀応彦/舞台監督:酒井 健/コレペティトゥール兼音楽コーチ:岩渕慶子/演出助手:生田みゆき、成平有子 /[出演]つう:小林沙羅(ソプラノ)/与ひょう:与儀 巧(テノール)/運ず:寺田功治(バリトン)/惣ど:三戸大久(バスバリトン)/ダンス:岡本 優(TABATHA)、工藤響子(TABATHA)/子供たち:世田谷ジュニア合唱団(指導:掛江みどり)/管弦楽:ザ・オペラ・バンド @芸劇コンサートホール

31日(日)14:00  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖[主要キャスト]オデット&オディール:木村優里/ジークフリード王子:渡邊峻郁/王妃:本島美和/ロットバルト男爵:中島駿野/ベンノ:木下嘉人/クルティザンヌ(パ・ド・カトル):奥田花純、広瀬 碧/ハンガリー王女:中島春菜/ポーランド王女:根岸祐衣/イタリア王女:赤井綾乃/指揮:冨田実里 新国立劇場オペラハウス

秋元松代『近松心中物語』KAAT 2021【追記】

秋元松代の『近松心中物語』を観た(9月9日 木曜 18:30/KAAT神奈川芸術劇場 ホール)。

【追記:席は平日夜割引 A席の2階5列(最後列)で3000円。夜割は15回公演のうち2回だけだが、大変有り難い。ちなみにS席 9500円、A席 6000円】

40年前に見た帝劇の舞台が、長塚圭史の演出で、等身大の、明るく哀しい舞台に生まれ変わった。適材適所のキャスティングはめったに出会えないが、出演者は子役を含めみな役にはまっていた。ちょっと心配していた大阪弁もみな巧かった(指導者の記載が見当たらないけど)。以下、感想メモをだらだら記す。

作:秋元松代(1911-2001)/演出:長塚圭史/音楽:スチャダラパー/美術:石原敬/照明:齋藤茂男/音響:武田安記/衣裳:宮本宣子/ヘアメイク:赤松絵利/振付:平原慎太郎/所作指導:花柳寿楽/音楽アドバイザー:友吉鶴心/演出助手:大澤遊/舞台監督:横澤紅太郎

[出演]亀屋忠兵衛:田中哲司/傘屋与兵衛:松田龍平/遊女梅川:笹本玲奈/傘屋お亀:石橋静河丹波屋八右衛門:石倉三郎/傘屋お今:朝海ひかる綾田俊樹、石橋亜希子、山口雅義、清水葉月、章平、青山美郷、辻本耕志、益山寛司、延増静美、松田洋治蔵下穂波,藤戸野絵、福長里恩/藤野蒼生(子役Wキャスト)

舞台の床は焦げ茶色の三角形。奥へいくと狭まり(三角形の頂点)、上も同型同色の天井で閉じられ、左右の袖は襞に見える折り目のような複数の壁が三角形の二辺を塞ぎ、演者は襞の間から出入りする(美術:石原敬)。基本、三角形の〝なにもない空間〟に最低限のセットが加わる。どの場もシンプルだ。そのぶん物語の中身がすっきりと飲み込める。

飛脚宿 亀屋の場では、床に数個の帳場机が整然と置かれ、奥の一つに亀屋後家 妙閑が座る。番頭や手代らの佇まいが好い。傘屋の場では、千手観音などの仏像や甲冑や琴など古物をぎっしりはめ込んだフレームが帳場の背後に降りてくる。瞬時に古道具古物商の店の間が現出する仕掛けだ。封印切りの越後屋の場は、華やかな朱色の行灯が座敷にいくつか置かれるだけ。八右衛門の来訪に忠兵衛と梅川が隠れるのは中二階ではなく、同じ座敷の行灯の奥、屏風の陰だ。傘屋長兵衛の表の場は、カミテに中二階の窓がありその下に大長持が置かれている。五十両の件で家を出ていた与兵衛がお亀に詫びにくるのだが、月明かりに忍んできた与兵衛が二階のお亀に地上から囁く図は、『ロミ&ジュリ』のバルコニーシーンのよう。蜆川堤の場では、川に見立てた長い布があるだけだ。最初は一筋、やがて三筋に。両端を持つ二人の黒子が布を波打たせると川の流れになる。驚いたのは、黒子が布を高く持ち上げ、その下を与兵衛とお亀に潜らせる趣向だ。数回繰り返されるが、まるで縄跳び遊びのよう。従兄弟同士で幼馴染みの道行きにはぴったりだった。

長塚演出の田中哲司は正直いつも不満だったが、見た中でベスト。なまの自分を無理なく出す。それが功を奏した。気弱で律儀で短気の忠兵衛をぶっきら棒に生きてみた。そんな感じ。封印切りもそうだが、心中シーンの、おたおたした、かっこ悪い、無様なあり方が、とてもかっこよかった。梅川役の笹本玲奈は儚げな美しさが姿・科白・所作によく出ていた(見世女郎にしては少し品がありすぎたか)。与兵衛の松田龍平は例の脱力系が全開で、ひょうひょうとしたあり方が役にはまり何度も笑わされた。生きる気力の無さそうなさまが、同郷で幼なじみの忠兵衛に頼りにされると、一変。見違えるほど生き生きし、後先考えずに五十両(約500万円)を貸してしまう。いやはや。お亀の石橋静河は、音感のよさ(大阪弁)に舌を巻いた。科白回しと動きも素晴らしく、箱入り娘のあっけらかんとした率直さが見事に生きられていた(『未練の幽霊と怪物』とは別人に見えた)。そんなお亀と与兵衛が「曽根崎心中」の蜆川まで逃げた挙げ句、心中未遂でお亀だけ死ぬ。他方、与兵衛は「済まんけど、寿命のくるまで生かしといてや」と死にきれずに生き残る。なんとも皮肉だ。石倉三郎が演じた八右衛門は、忠兵衛に封印を切らせる大事な役。〝友人〟忠兵衛との年齢差が少し気になったが、安定感があり悪役になりすぎない点は見事だった。朝海ひかるが扮したお今は大店の女房として未熟な義娘夫婦を躾ける一方、情もなくはない(二人の叔母でもある)。その機微を巧みに演じていた。亀屋後家 妙閑(女)と傘屋 長兵衛(男)の二役を演じた綾田俊樹は、いずれも養子の息子への情愛が滲み出た。さすが。

ラップグループのスチャダラパーによる音楽もまったく違和感なし。出演者が鉦や太鼓を叩き、秋元が作った歌詞を唄う。簡素な舞台によく合っていた。結果〝美的〟にならず、カラッとした明るい心中物語に仕上がった。でも要所ではグッとくる。

秋元はなぜ二つの心中カップルを作品に盛り込んだのか。梅川と忠兵衛の心中は、近松浄瑠璃原作にはないが、典型的かつ理想的に見える。その意味で、フィックションの純度が高い。一方、お亀と与兵衛の場合、お亀のミーハー的な「曽根崎心中」への憧れが突発的に心中を敢行させ、与兵衛は死にきれず未遂となる。この点について作者は「与兵衛を死なせないことによって、元禄期の町人と昭和の時代のわれわれとの通路にすることができる」と書いていた(「あとがきにかえて」『元禄港歌・近松心中物語』新潮社、1980)。これは言いかえれば、お亀と与兵衛の心中〝未遂〟は、前者の美的な心中よりもフィクション性が低く、現在の観客には身近ということだ(後者が、前者より、客席から近い舞台手前で演じられたのはこの事と無関係ではないはず)。【また、一方のカップルは遊女と大店の養子だが、他方は遊女ならぬ大店の娘と婿養子の夫婦である点にも観客との「通路」(近さ)が見出せる。】蜷川演出では、前者の心中は、まさに虚構美の極致だったと記憶する。だが、今回の長塚演出では、ここでも(特に忠兵衛は)リアルで無様な演技をさせていた。梅川の哀しく美しい死に方で、辛うじて心中の〝理想〟をとどめていたが。いずれにせよ、三百年前の封建的な時代に流行った「心中物語」をフラットな現代社会(ほんとか)の観客に無理なく受容させるには、後者の「通路」が必須だったのだろう。加えて、昭和から平成を経て令和となったわれわれには、フィクション性の高い前者ですら、一定のリアル(無様)が必要になった。演出家はそう感じたのではないか。

かつての蜷川演出では冒頭で一気に観客を圧倒し、フィクション世界へワープさせる絢爛で厚塗りの舞台だった。今回の長塚演出は、観客の想像力を尊重し徐々にその世界へと導いていく。80年代は前者が効果的で意味を持った。だが、やがて、それだと鬱陶しい、うるさいと感じるようになる。激しくシャウトする舞台から、静かな舞台へ。前者はもちろんエネルギーに満ちていた。そのギラギラしたエネルギーが耐えがたくシンドイと感じるほど、みな疲れてしまったのだろうか。かつて蜷川演出の『ハムレット』(スパイラルホール/私は未見)が朝日の劇評で批判されたのも、同じ問題だったと記憶する(蜷川はその反論を壁に貼り出したらしい)。今回の舞台にもエネルギーはあった。むろんそれは人を圧倒する類いのものではない。注視し、耳を澄ませば、間違いなく感取できるもの。つまり、舞台と客席のあいだで行き来するエネルギーの交流だ。90年代以降、個人的には次第に蜷川演出を見なくなっていった(浅丘ルリ子主演の『にごり江』などは違っていたし、後の一連のチェーホフなども趣が変わっていたが)。その理由は主役にアイドルを登用しチケットが取れなくなったから、だけではない。今回の公演で、そのことを改めて思い返した。

KAATでは、嬉しいことに、椅子やテーブルやソファなど「居場所」があちこちに作られていた。たとえ舞台を見なくとも、憩える場所としての劇場を捉え直す芸術監督の意向だろう。家からはちょっと遠いけど、応援したくなった。

 

「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜—アイヌであればこそ」展 2021【図版を追加】

「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜——アイヌであればこそ」展を見た(9月10日 金曜 15:00/東京ステーションギャラリー)。勧められて見たが、見てよかった。

アイヌ民族の両親から生まれた藤戸竹喜(1934-2018)の木彫り作80余点。熊、群熊、長老(エカシ、フチ)、観音像、狼、狐、海の生物等々。そのいずれにも命が宿っているかのようだ。熊のからだを覆う毛は〝毛彫り〟で作り出すらしいが、いかにも柔らかそうで、硬い木材にはとても見えない。

「川の恵み」(2000)は川の急流に遡上した鮭を熊たちが捕まえ、小石の河原で食べるさまを彫った作。親熊と2頭の小熊が河原で鮭に噛みつき、裂けた内蔵のイクラに喰らいついている。全体の構成の大胆さと今にも動き出しそうなディテールには舌を巻く。これが一本の木から彫り出されたとは!

19点の連作「狼と少年の物語」(2016-2017)も印象深い。川べりでアイヌの幼子が両親からはぐれ流れにさらわれるが、狼の夫婦が岩に引っかかったその子を助け、山の巣穴に連れ帰り、狼の子と区別なく育てる話だ。19点の制作年月を見るとばらばらで、物語の順序とは一致しない。何点か狼を彫る中で、連作を思いついたのかもしれない。1900年ごろ絶滅したといわれる狼を藤戸が彫りたいと思ったのは、少年期にエゾオオカミの複製を見たのがきっかけという。狼を彫るとき、藤戸はタモの埋もれ木を好んで使った。「土に埋もれ灰色に変色した埋れ木で狼を彫って、なんとか狼を蘇らせたかったのかもしれない」とは本人の言葉だ。たしかに「倒木し、土中などでさら100年、200年と眠り続けた埋もれ木は、エゾオオカミが哭き、森を駆け抜けていた時代に生きていたものだ」(五十嵐聡美/図録)。

この連作から柄谷行人柳田國男論を思い出した(『世界史の実験』2019)。柄谷によれば、柳田の山人研究は、それを滅ぼした者(柳田を含む)による山人の供養である。つまり「滅ぼされた先住民を、それを滅ぼした者の子孫であると同時に、その先住民の血を引いているかもしれない柳田が「一巻の書」を成すことによって、弔うこと」であると。さらに柳田は「山人」論が批判されると、今度は絶滅されたとみられた狼を論じはじめる。柳田が採取した狼の記録には、婦女や童子が「悪い」狼と闘って殺した話のほか、村人が一匹の狼に袂をくわえられ怯えながらも引かれるまま草叢に入ると、目の前で狼の群れが地響きを上げて通りすぎたという「送り狼」の話もある(狼史雑話」1932)。柳田は、柄谷によれば、狼は狩猟採集民(山人)の狩猟仲間であり、狼が敵視されるのは定住農耕民の段階以後とみていた。まるで柳田は山人と狼を同一視し、その絶滅を「弔い」供養しているかのようだ。

藤戸竹喜が狼を彫り、また狼がアイヌの子を助けた話を彫るのも、その絶滅を「弔い」供養するためといえる。だが、藤戸自身、狩猟採集民(アイヌ)の血を丸ごと引く身であれば、弔いの対象は、狼らと共存しえたアイヌ民族(文化)とその世界(アイヌモシリ)だったのかもしれない。

9月のフィールドワーク予定 2021【懐かしい表紙を追加】【再追記】

f:id:mousike:20210902140122j:plain   f:id:mousike:20210902140053j:plain玉三郎仁左衛門のコンビで歌舞伎を見るのは本当に久し振り。二人がおかると勘平/平右衛門で出演の『仮名手本忠臣蔵』が歌舞伎の初見だった(塩冶判官は〝受け口〟の七代目芝翫/由良之助は團十郎)。今回 演目は違うが、その外伝というから感慨深い。秋元松代の『近松心中物語』はもちろん帝劇での蜷川演出で見て以来となる。30年後のいま、新たに長塚圭史の演出で松田龍平石橋静河らがどんな舞台を見せてくれるか。楽しみだ。

15年間継続してきた新日本フィルの定期会員は金曜ソワレが終了したため更新せず、9月から東京芸術劇場N響定演(金)にサブスクライブした。指揮者の顔ぶれや曲目もあるが、居住地から15分で行けるアクセスはかなり魅力的。Cプロは60〜80分で休憩なしだが、そのぶん料金はリーズナブル。N響にはNHKホールの改修後もぜひここで続けてほしい。コンマスの篠崎氏は「音が安定していて、すごく素敵なホール」と評価しているようなので尚更だ。

3日(金)19:00 新国立劇場 演劇『ガラスの動物園』〈フランス語上演/日本語字幕付〉作:テネシー・ウィリアムズ/演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ/制作:国立オデオン劇場/フランス語翻訳:イザベル・ファンション/ドラマトゥルグ:クーン・タチュレット/美術・照明:ヤン・ヴェーゼイヴェルト/衣裳:アン・ダーヒース/出演:イザベル・ユペール ジャスティーン・バチェレ シリル・グエイ アントワン・レナーツ @新国立中劇場 ←「新型コロナウイルス感染症の影響による日本への入国制限の緩和等が現時点で見通せない」ため「公演を中止し、2022年秋への延期を検討する」とのこと

3日(金)「木下晋展 生の脱皮の証し」@ギャラリー枝香庵(銀座3丁目)

【4日(土)「目力(めじから)展—見る/見られる関係性」板橋区立美術館←追記

5日(日)18:00 九月大歌舞伎 第三部『東海道四谷怪談「四谷町伊右衛門浪宅の場」「伊藤喜兵衛内の場」「元の浪宅の場」「本所砂村隠亡堀の場」作:四世鶴屋南北お岩/お花:玉三郎/直助権兵衛:松緑/小仏小平/佐藤与茂七:橋之助/お梅:千之助/按摩宅悦:松之助/乳母おまき:歌女之丞/伊藤喜兵衛:片岡亀蔵/後家お弓:萬次郎/民谷伊右衛門仁左衛門 @歌舞伎座

9日(木)18:30 近松心中物語』作:秋元松代/演出:長塚圭史/音楽:スチャダラパー/美術:石原敬/照明:齋藤茂男/音響:武田安記/衣裳:宮本宣子/ヘアメイク:赤松絵利/振付:平原慎太郎/所作指導:花柳寿楽/音楽アドバイザー:友吉鶴心/演出助手:大澤遊/舞台監督:横澤紅太郎/[出演]亀屋忠兵衛:田中哲司傘屋与兵衛:松田龍平/遊女梅川:笹本玲奈傘屋お亀:石橋静河丹波屋八右衛門:石倉三郎/傘屋お今:朝海ひかる綾田俊樹、石橋亜希子、山口雅義、清水葉月、章平、青山美郷、辻本耕志、益山寛司、延増静美、松田洋治蔵下穂波,藤戸野絵、福長里恩/藤野蒼生(子役Wキャスト) @KAAT ホール

【10日(金)15:00 「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜—アイヌであればこそ」展東京ステーションギャラリー←追記

10日(金)19:30 N響 #1936 定演〈池袋Cプロ〉バルトーク組曲中国の不思議な役人」、《管弦楽のための協奏曲》指揮:パーヴォ・ヤルヴィ @芸劇コンサートホール

13日(月)19:15 シーユーインヘル「君が忘れたダンスフェス」A 横山彰乃×34423/池ヶ谷奏×鳥羽絢美×西澤真耶×林田海里/伊藤まこと @こまばアゴラ劇場

26日(日)15:00 BCJ #144 定演/L. v. ベートーヴェン:静かな海と楽しい航海 作品112、交響曲 第2番 ニ長調 作品36、オラトリオ《オリーヴ山のキリスト》作品85/指揮:鈴木雅明/ソプラノ:キャロリン・サンプソン(海外からの渡航制限等の状況により)→中江早希/テノール:鈴木 准/バス:加耒 徹/合唱・管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

【30日(木)16:20 映画『MINAMATA ミナマタ』監督:アンドリュー・レビタス/[キャスト]W・ユージン・スミスジョニー・デップヤマザキ・ミツオ:真田広之ノジマ・ジュンイチ:國村 隼/アイリーン:美波/キヨシ:加瀬 亮/マツムラタツオ:浅野忠信/マツムラ・マサコ:岩瀬晶子/ミリー:キャサリンジェンキンス/ロバート・“ボブ”・ヘイズ:ビル・ナイ/シゲル:青木 柚/[スタッフ]製作:サム・サルカル ビル・ジョンソン ガブリエル・タナ ケビン・バン・トンプソン デビッド・ケスラー ザック・エイバリー アンドリュー・レビタス ジョニー・デップ/製作総指揮:ジェイソン・フォーマン ピーター・タッチ スティーブン・スペンス ピーター・ワトソン マリー=ガブリエル・スチュワート フィル・ハント コンプトン・ロス ノーマン・メリー ピーター・ハンプデン ノブ・ハセガワ ジョー・ハセガワ/脚本:デビッド・ケスラー スティーブン・ドイターズ アンドリュー・レビタス ジェイソン・フォーマン/撮影:ブノワ・ドゥローム/美術/トム・フォーデン/衣装:モミルカ・バイロビッチ/編集:ネイサン・ヌーゲント/音楽:坂本龍一/音楽監修:バド・カー @イオンシネマ板橋】←再追記

 

細川俊夫 オペラ《二人静 ~海から来た少女~ 》演奏会形式(日本初演)+グスタフ・マーラー(コーティーズ 編曲)《大地の歌》2021

サントリーホール サマーフェスティバル 2021」初日を聴いた(8月22日 日曜 18:00/サントリーホール)。

指揮:マティアス・ピンチャー/アンサンブル・アンテルコンタンポラン/アンサンブルCMA

 難民の少女に静御前の霊が取憑く《二人静》と漢詩の翻案に基づく《大地の歌》。東洋と西洋の対話・融合を体感できる素晴らしいプログラム。以下、だらだらとメモする。

細川俊夫:オペラ《二人静 ~海から来た少女~ 》(2017) [日本初演]原作(日本語):平田オリザ 能『二人静』による(1幕1場/英語上演・日本語字幕付/演奏会形式)/ソプラノ:シェシュティン(カースティン)・アヴェモ /能声楽:青木涼子 

嵐を描くターナーの油彩を水墨画にしたような、そんな音楽だった。地中海から漂着した難民少女ヘレンに日本の静御前白拍子=舞手)の霊が取憑き、シズカの悲劇を少女が英語で歌う。二人の悲劇や悲しみが、いまここで重なり合うのだ。もちろん両者は時代も文化も内実も異なる。だが、難民少女の悲しみと、サムライ(義経)を愛した踊り子の嘆きが舞台でシンクロし、背後にある男たちの戦(争)が浮かび上がってくる。それにしても、室内オペラで9世紀前の日本の悲劇が、同時代の難民少女を介して表出するとは。さすが平田オリザ。なお、今回はソーシャル・ディスタンスを考慮した演出になるらしい。

白に近い生成りのコスチュームを身につけたカースティン・アヴェモ(ヘレン)は登場後、指揮者の手前ややシモテ寄りに横座りする。海、波の音、風、嵐…。オケが緊迫した響きを次々に生成させると、アヴェモは立ち上がり「Where do I come from? 」「Where am I going?」と呆然自失の問いを発した後、ヘレンは陸にたどり着いた経緯を歌い語る。特に手を繋いでいたはずの幼い弟を失った条りから、終戦前の悲惨な空襲の手記を思い出した。…やがて生成りの装束を纏う青木涼子(シズカ)がカミテから摺り足で登場。ヘレンが誰何 Who is there? すると、指揮者手前のカミテ寄りでシズカは「きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ」とアルトより低めの声で吟ずる。百人一首で馴染みのある和歌がこの文脈で聴けると、なんか嬉しい(光孝天皇古今集)。春に雪が降る? 春は正月のこと… 英語(時に日本語)での遣り取りが続く。I will enter you, and show you. あなたのなかに入って教えよう。ヘレンは両腕を胸の前で十字にクロスさせ Stop! Hang on! やめて! 待って! …水滴の音が効果的。憑依されたヘレン「Watashi wa shizuka…」その後、英語でシズカの悲劇を歌い、語る。かたき(頼朝)の前で舞った話など。アヴェモの鋭いハイトーンは強烈で、シズカの嘆きや恨みがホールに響き渡る。ヘレンとシズカは「しづやしづ、しづの苧環(をだまき)、繰り返し、昔を今に、なすよしもがな」と謡い、青木がカミテで扇を使って舞う。ここでフルートとパーカッション、そしてバスクラリネットが和洋を融合した舞の音楽を奏する。とても印象的。…シズカ(霊)退場。少女は初めの問いを繰り返す。即物的だったこの問いが、実存の不安に由来する(ゴーギャンの絵画を想起させる)問いに聞こえてくる。少しずつ弱まる響き。照明も。暗転。すべてが沈黙と闇のなかに消失する。

出演者はみな極めて質が高い。アヴェモのハイトーンには、少女のイノセンスと、身に受けた不正を全身で訴える〝魂の(と言いたい)叫び〟が同時に聴き取れる。健気な立ち姿も好い。能楽の青木は、日本の伝統芸能西洋音楽に違和感なく融合させる稀少なアーティストだ。このふたりは身長や年格好がほぼ同じに見え、「二人静」にぴったりだった。指揮のマティアス・ピンチャーは、今フェスティバルのテーマ作曲家でもあるが、スコアへの深い理解が感じられた。オケのクオリティーは言わずもがなだ。カーテンコールでは細川俊夫氏のみならず、平田オリザ氏も登壇した。東京に来てたのか。

グスタフ・マーラー/コーティーズ 編曲:《大地の歌》(声楽と室内オーケストラ用編曲)(1908~09/2006)ピンチャーによるオリジナル編成/メゾ・ソプラノ:藤村実穂子テノールベンヤミン・ブルンス 

 素晴らしい歌唱、演奏。この曲は、大昔にメータ指揮のNYフィル+ブリギッテ・ファスベンダー&ジョン・ヴィッカーズをエイヴリー・フィッシャー・ホールで聴いたはずだが、ほとんど覚えていない。その後もマーラーのシンフォニーはよく聴いたが、この作品だけはあまり好い印象がなかった。それが、こんな素晴らしい音楽だったとは。フルオケでない分、インティメットに音楽の好さが伝わってきた。テノール(カミテ)とメゾ・ソプラノ(シモテ)は六つの楽章を交互に歌う。歌詞の内容は総じて「暗い dunkel」が、両歌手の歌唱の趣は対照的。テノールは快活かつ直情的(意識的だろう)、メゾは沈着で内省的。人間が有する二面性みたいだ。ベンヤミン・ブルンスの歌唱も見事だったが、藤村実穂子には第一声から引き込まれた。思わず落涙。藤村の深い歌唱には、言葉に注視させる力がある。とはいえドイツ語を聞き分ける力はなく、ただ字幕を読むだけだが。なかでも最終楽章は特筆に値する。

…「友は馬を下り別れの酒杯を差し出し、私に尋ねる『君はどこへ行くのか、なぜ行かねばならないのか』と」(以下すべてA. H. Meyer 等の英語版に基づく)…

この問いは、奇しくも《二人静》の冒頭および幕切れと響き合っていた。

…「友よ、私はこの世で幸せには恵まれなかった。どこへ行くのかと? 私は山のなかへ歩んで行くのだ」。「孤独なこころに安らぎを求めて。故郷へ、生まれた所へ。もう二度と見知らぬ土地をさすらうことはない。私はこころ穏やかにその時を待つのだ」。

死への想念を歌うフレーズには歌い方が穏やかなだけにグッときた。藤村の歌唱にはそれでいて揺るぎなさも感じる。が、さらに心を動かされたのはこの後だ。

「愛しい大地は春になると至る所で再び花を咲かせ、木々は緑に覆われる。至る所で、遙か彼方で、青く輝く、永遠に、永遠に」

最後にチェレスタの明るい上昇音階のなか藤村の「永遠に ewig」 の繰り返しが次第に遠ざかり、消えてゆく。まるで魂が上昇しながら大地(地球)を俯瞰で眺め*1、別れを告げているかのよう。

終曲後の長い沈黙。指揮者が手を下ろしたあとも、沈黙はさらに続く。痺れた。これほど舞台と客席の集中度が高いコンサートはいつ以来だろう。

すでに触れた通り、ブルンスと藤村の対照的な歌唱がとてもよかった。ブルンスは2017年BCJの《マタイ受難曲》でエヴァンゲリストを歌った。言葉の意味を噛みしめつつ見事に歌い語った記憶がある。昨年のN響BCJによる《ミサ・ソレムニス》で歌う予定が、残念ながらコロナでキャンセルとなった。

藤村が歌うときの立ち姿は、文字通り、揺るぎがない。変な話、身体を押しても彼女は倒れそうにない。この〝揺るぎなさ〟は歌唱のクオリティと相関している、そう思ってしまった。ところで、今回、彼女はブルンスが歌うとき椅子に座るのだが、毎回、薬かなにかを口に入れ、水を飲み、マスクを付けていた。徹底した感染予防だ。欧州等でこれだけ長く高いクオリティを維持するには、想像以上の努力や体調管理が必要なのだろう。

*1:大地(地球)を俯瞰で見るイメージは、ベートーヴェンヘーゲルヘルダーリン)と同年のウィリアム・ワーズワースのルーシー詩篇を想起させる。「…いまや彼女はまったく動かないし力もない No motion has she now, no force; /聞こえもしないし見えもしない She neither hears nor sees; /地球の日々の運行でぐるぐる回っているRolled round in earth's diurnal course, /岩や石や木々と共に With rocks, and stones, and trees. 」埋葬された「彼女」が地球(大地)の自転で自然物と一緒に回転している心象だ。もっとも、死の主体は「彼女」で、マーラー漢詩の翻案)のように「私」(本人)ではない。が、ワーズワースは「自分自身の死について、いわば、自身の墓の向こうから語りうる数少ない詩人のひとりであり、本詩の「彼女」は、実際、ワーズワースをも包含するに足るだけの大きさを備えている」との解釈もある(ポール・ド・マン)。もしそうなら、この連想はさほど見当違いではないかもしれない。

岡田利規『未練の幽霊と怪物 —「座波」「敦賀」—』2021

オリンピック開会式のテレビ中継で森山未來が出てきた。コロナ禍等で亡くなった人達を追悼する旨のアナウンスがあり、ひとり森山がギリシャ風の衣裳で踊ったのだ。当然この舞台が頭に浮かんだ。もう二ヶ月以上経ったが、強烈な印象はいまも消えていない。

岡田利規 作・演出『未練の幽霊と怪物 —「座波」「敦賀」—』の3日目を観た(6月7日 月曜 19:00/KAAT 神奈川芸術劇場〈大スタジオ〉)。昨年6月の公演が新型コロナで中止となり、代わりに二日間だけ前シテがハケルまでの映像版が無料配信された。その本公演だ。以下、だらだらとメモしたい。

音楽監督・演奏:内橋和久/演奏:筒井響子、吉本裕美子/舞台美術:中山英之/宣伝美術:松本弦人/企画製作・主催(横浜公演):KAAT神奈川芸術劇場

興奮した。 岡田利規の舞台は感覚と思考を刺激する。既成の形式やフレームを自明視せず、つねに新たな方法を模索しているからだろう。これはたしかに能だ。『地面と床』(2013)でも能へのオマージュを感じたが、今回は丸ごと〝能のフォーマット〟(岡田)を採用している。『敦賀』では廃炉が決まった高速増殖炉もんじゅをモティーフに「核燃料サイクル政策の亡霊」を、『座波』では新国立競技場のデザイン案を撤回され急死した建築家「ザハ・ハディド」をそれぞれ後シテに、その未練を、果たされなかった夢を舞台に現出させる。痺れた。

敦賀』ワキ(旅行者):栗原類 シテ(波打ち際の女):石橋静河 アイ(近所の人):片桐はいり 後シテ(核燃料サイクル政策の亡霊):石橋静河 歌手:七尾旅人

舞台には四角形の白いリノリューム(?)が敷かれている。その左端は橋がかりのようにシモテ奥へ延び、その手前に三つの黄色いコーンが等間隔で置かれている。松の代わりか。上方には四角形の〝屋根〟が掛かり、舞台を見おろす平面が鈍い光を放つ。この「曇り空」は「グローブ座の平土間から見上げた丸い空」がヒントらしい(美術:中山英之)。白い床シートの正面奥に3人の演奏者(地謡)が、カミテ端の、床シートの外側に歌手(謡手)七尾旅人が陣取る。

内橋和久らが奏するダクソフォンから、二胡を弾くような動作とは裏腹に、笛、小鼓、大鼓のような電子音が生み出される。旅行者(ワキ=栗原類)がオレンジ色の大きなショルダーバッグを床に引き摺りながら「橋がかり」から登場。「ぼくは今こう見えて、ドライブ中なんですけど。今走っているのは福井県の、日本海の海岸沿いを行く道」と(『未練の幽霊と怪物 座波/敦賀白水社、2020年、以下同様)。これだけでもなんか可笑しい。やがて波打ち際の女(シテ=石橋静河)が登場。旅行者と「もんじゅ」についてあれこれ問答し、去る。今度は近所の人(アイ=片桐はいり)登場。片桐は、エレキギター(内橋和久)のインプロとコラボで散文詩を饒舌に発する。無論からだの動きも連動して。面白い。その後、何事もなかったかのように近所の人が去ると、核燃料サイクル政策の亡霊(後シテ=石橋)が薄ピンクの衣裳を纏い登場(両膝のサポーターは後の女優業を考えてか)。昨今よく目にするアクリル板のような透明の仮面を付けている。よく子供がおどけて顔を窓ガラスに貼り付けるが、仮面越しの顔はかなり不気味。なるほど、よく考えられている。それにしても石橋がこんなに踊れるとは。しかも、人間の未練や恨みなら分かるが、〝政策〟を踊るのだ。石橋の舞(コンテンポラリーダンス)と七尾旅人の謡はもんじゅの、否、核燃料サイクル政策の〝夢〟を見事に形象化した。ワキの栗原は、後シテの、めくるめくような踊りを目の当たりにしたあと、表情を変えずゆっくり去って行く。栗原のからだは、石橋の発したエネルギーを吸収し尽くした。そう感じた。また彼の表情の無さは、客席に居るわれわれの鏡として機能した。観る者は、そのなんとも言えない無の表情に、自分の内部で起きたドラマを勝手に読み取ることになるから。

ここで休憩。

『座波』ワキ(観光客):太田信吾 シテ(日本の建築家):森山未來 アイ(近所の人):片桐はいり 後シテ(ザハ・ハディド):森山未來  歌手:七尾旅人

観光客(ワキ=太田信吾)は、新国立競技場の「絶賛建設工事中」現場を一回りしている。そこに、日本の建築家(シテ=森山未來)登場。モスグリーンの柔らかそうなシャツとパンツに黄色のスニーカー姿の建築家は、一心に工事現場を眺め、独白する。「悔やんでいる、けれどもわたしたちには悔やむ資格があるんだろうか?/やり直せても、おそらくわたしたちは踏むだろう、同じ轍を。/過ちは繰り返さないと心から、誓うことができない、ならば、/祈る資格が、あるのかわたしたちに、安らかに眠ってほしいと」。(この前後で残念ながら前列中央の男性の携帯が鳴った。)

…この建築家旅行者に問われ、答える。「今建てられようとしているものを眺めているのではなく、本来建つはずであったものを思い描いているんです」。旅行者「あー、でもあのデザイン、当時日本でかなり評判悪かったんですよね?[…]コストがべらぼうだっていうんでとにかく批判されてたんじゃなかったでしたっけ[…]それであの案結局白紙撤回になったんでしたよね」。建築家「あなたも、あのときあの建築と建築家に向けられた、あてつけ、悪意あるキャンペーンに乗せられた、一人ですね」。

そう、あの巨大な流線型のデザインに美的な違和を感じた自分も、その一人だったと思う。

歌手「汚名を着せても 彼女になら/気の強そうな エキセントリックそうな/外国人の 女の 建築家になら/話をなかったことにして/ゼロ・ベースに戻して/約束を破っても/構わないと思っていたんだろう/ぼくたちは」

こう歌う七尾の歌声は、胸に突き刺さる。

建築家が去り、近所の人(アイ=片桐)が登場すると、エレキを持って立ち上がった内山は、チラッと片桐の顔を見て思わずほくそ笑む。さりげない遣り取りを観取する悦びはライブならでは。こっちもつい頬が緩む。近所の人旅行者の問答の後、近所の人とエレキ(内山)のコラボが勃発。

近所の人「そのオリンピックやりたいありきで競技場も新しくしようってんでデザイン募って国際コンペ、そしたらザハさんのがいちばん躍動感みなぎって未来的、スポーティーって選ばれて、それがオリンピック招致にもかっこいいじゃない、フューチャリスティックじゃない、ってアピールしたのが功を奏して招致に成功した部分は大だったんだからそれはもう立役者ですよ、それを白紙撤回ゼロベースってあんまりだ![…]コスト高は要因は発注サイドのそもそもの設計要件が収容人数まえの国立競技場よりたくさん入るようにしたい、あとオリンピック終わったあと元取る意味でもコンサート・イベント、ガシガシやりたい、だから屋根は全天候対応の開閉式の付けたい自動式の、そんな要件入れて設計したら予算高くなるのは当然。そもそもコスト管理は」…。

エレキの音が少し強すぎる気もしたが、こうした言葉がラップのようなノリで矢継ぎ早に放たれる。

…「発注サイドで付かなくなった収拾、こんがらがった経緯、すったもんだ、ディスオーダー、ぜんぜんうまくいってない、どうすんだこれ? それ受注サイドの責任にして、誰が悪いんだ、ザハが悪いんだ、世の中も雰囲気的にそれ黙認して、システム全体の、社会のそこかしこの、責任の耐えられない負わなさ。それが、ザハを殺したんだとその人[シテ=日本の建築家]は感じているとか、いないとか。それに対して申し訳なく思っているとか、いないとか。今建とうとしているあの国立競技場は、あれ完成すると上から見たときの形が数字のゼロに見えるようになるらしいんですよ。だからあれはね、その人からすると、ザハのデザインがゼロ・ベースにされたことを忘れないために建てられた、巨大な碑(いしぶみ)なんだということだそうですよ」。近所の人退場。

ザハ・ハディド(後シテ=森山)登場。ギリシャ悲劇を思わせるコスチュームは薄グレーと淡いグリーンがかったグレーのパンツ(袴みたい)。例のアクリル板に見える面を付けて素足で。建築家の愉悦を歌いながら、建つはずだった競技場の構造や形状を空間に描き、配していく。ドリルの音。建築現場のノイズ。それがリズムとなり、森山は舞い続ける。トランス状態か。ジャンプし、バタンと座り込む(能でよくやるやつ*1)。恨み辛みではなく、一心不乱に建築物を構築していく動き。この間の七尾の歌(謡)がまた素晴らしかった。胸がすくような歌声。グッときた。かなり。われわれはザハ・ハディドの思い(未練)を目の当たりにし、その一端を共有した。共有? ザハの追い落としに加担したわれわれが、彼女の未練を共有? だけど、たしかにそうしたと思う。〝加害者〟が〝被害者〟の思いを共有する。これ以上の追悼があるだろうか。

岡田利規の舞台を初めて見たのは『エンジョイ』(2006年12月,新国立小劇場)で、だらだら喋りよりもセリフの話法に興味をそそられた。直接話法と間接話法の混交。人形浄瑠璃義太夫節みたいに。鈴木雅明の《受難曲》に関するコメントが頭によぎったのを思えている。曰く、受難曲ではオペラと違って、ドラマが内面で生じる等々…。当時のプログラムから走り書きした紙切れが出てきた。

悲惨な青春 今時の、断定しない若者言葉が〝詩的〟に響く 話者の不定性(転移) 役者(話者)と人物の関係が固定化しない 感情同化を拒否 バッハの受難曲を想起 ドラマが舞台上ではなく見る(聞く)者の内面で生じる(鈴木雅明) ラスト近くで初めて登場する岩本えりの明るいエロス=救い(ある意味、古典的な図式) ラストは映像化されたカップル 映像とライブのズレ 仕掛けを見せる=ブレヒト的 舞台の重苦しさ=現代の日本社会のそれ が、フランスの学生デモの映像は…? セリフと共に見せる奇妙な身振り=社会化されていない若者たちのありようをリアリスティックに表象

 15年前に感じたのも、やはり方法的な側面だった。

これまで見た岡田利規チェルフィッチュ)の舞台(演出のみを含む)を以下に記す。

*1:森山はオリンピックの開会式でも似たような動きをしたが、あれは「五体投地」らしい。「五体投地」も色々あるようだが、森山がやったのは東大寺修二会の「お水取り」で僧がおこなう行のひとつで、飛び跳ねて片膝を木に打ちつけ「罪障」を「懺悔」し祈願する行法の由。「お水取り」は今年3月にNHKの生中継で見たが暗くてよく分からなかった。いずれにせよ、天皇や総理大臣、都知事をはじめ国民が注視するなか、〝ザハ・ハディドのデザインがゼロにされた巨大な碑(競技場)〟のど真ん中で、「罪障」を「懺悔」する行を舞ったとは! この意義は計り知れない。岡田利規森山未來になにかアドバイスしたのだろうか。一方、KAATの舞台の踊りはそれとは異なり、能の舞を採り入れたものと思われる。